はたゞちに円タクをひろって、せかせかと矢田津世子に車をすゝめた。
「じゃア、さよなら」
矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、
「おやすみ」
と軽く頭を下げた。
それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。
私は、塔の中の部屋で、夜更けまで考えこんでいた。そして、意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。
私の絶縁の手紙には、私たちには肉体があってはいけないのだ、ようやくそれが分ったから、もう我々の現身はないものとして、我々は再び会わないことにしよう、という意味を、原稿紙で五枚くらいに書いたのだ。
翌日、それを速達でだした。街には雪がつもっていた。その日、昭和十一年二月二十六日。血なまぐさい二・二六事件の気配が、そのときはまだ、街には目立たず、街は静かな雪道だけであったような記憶がする。
一しょに竹村書房へも手紙をだした。数日後、竹村書房へ行ってみると、その手紙が戒厳令司令部のケンエツを受けて、開封されているのだ。
してみれば矢田さんへ当てた最後の手紙も開封されたに相違ない。むごたらしさに、しばらくは、やるせなかった。
矢田さんからの返事はなかった。
底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学界 第二巻第五号」
1948(昭和23)年5月1日発行
初出:「文学界 第二巻第五号」
1948(昭和23)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全9ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング