として悔恨の臍《ほぞ》をかむこと、これはあらゆる酒飲みの通弊で、思ふに、酔つ払つた悦楽の時間よりも醒めて苦痛の時間の方がたしかに長いのであるが、それは人生自体と同じことで、なぜ酒をのむかと云へば、なぜ生きながらへるかと同じことであるらしい。酔ふことはすべて苦痛で、得恋の苦しみは失恋の苦しみと同じもので、女の人と会ひ顔を見てゐるうちはよいけれども、別れるとすぐ苦しくなつて、夜がねむれなかつたりするものである。得恋といふ男女二人同じ状態にあるときは、女の方が生れながらに図太いもので、現実的な性格がよく分るものであり、だから女の酒飲みが少いのかも知れぬ。
女はそのとき十七であつたから、十一年上の私は二十八であつたわけだ。この十七の娘が大変な酒飲みなのである、グラスのウヰスキーを必ずぐいと一息で飲むのである。何杯ぐらゐ飲んだか忘れたが、とにかく無茶な娘で、モナミだつたかどこかでテーブルの上のガラスの花瓶をこはして六円だか請求されると、別のテーブルの花瓶をとりあげてエイッと叩き割つて十二円払つて出てくる娘であつた。しよつちう男と泊つたり、旅行したりしてゐたが処女なので、娘は私に処女ではないと云
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