紙であれ、書かれるものすべてが一様に自己を語り自己を残したい願望のあらはれであつたのかも知れぬ。また元来が紅毛人は自己を主張する点では日本人ほど抑制力がない。従而《したがつて》その野心のあらはれも逞しいから、小説だけでこと足らず余剰勢力が手紙に及ぶといふことが有りうるのかも知れないし、他面セビニエ夫人等を指すところの手紙作家(エピストレエル)といふ特殊な名詞があるのでも分るとほり、日本人の手紙に比べるともともと紅毛人の手紙は一人に読ませるよりも万人に読ませる意識が強いのだ。サロンなぞで、貰つた手紙を公開し朗読するといふことが、普通行はれてゐたのかも知れない。尤も私の想像である。
私は廿二歳の晩秋愈々頭が狂ひさうになつたのでいつ自殺してしまふのか自分でも見当がつかないと思はずにゐられなかつた。そこでその頃たつた一人の友達だつた山口といふ岸田国士門下の俳優の卵へあてゝ書置きめいた手紙を送つた覚えがある。死んだらこれこれのノートへ書きとめておいたものを機会のあるとき世へ出してくれといふ意味だつた。この山口といふ男は当時の私のたつた一人の友達だが(もう一人沢辺といふのがゐたがこれはほんとに発
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