感に打たれてゐる。同性の小説家もやつぱり十八九だと思つたさうだ。

 私は近頃|切支丹《キリシタン》の書物ばかり読んでゐる。小田原へ引越す匆々《そうそう》三好達治さんにすゝめられて、シドチに関する文献を数冊読んだ。それから切支丹が病みつきになり、手当り次第切支丹の本ばかり読む。パヂェスの武骨極まる飜訳でもうんざりするどころか面白くて堪らないのである。
 文献を通じて私にせまる殉教の血や潜伏や潜入の押花のやうな情熱は、私の安易な常識的な考へ方とは違ふものを感じさせ、やがて私は何か書かずにゐられないと思ふけれども、今は高潔な異国に上陸したばかりのやうで、何も言ふことが出来ないのである。
 内藤ジュリヤ。京極マリヤ。細川ガラシャ。ジュリヤおたあ。死をもつて迫られて尚主を棄てなかつた婦人達。私の安易な婦人観とはだいぶん違つた人達であつた。私には、これらの婦人と現実の婦人たちとの関聯や類似がはつきりしない。どういふ顔をしてゐただらうか。日常の弛んだ心にも主の外に棲むことはできなかつたのだらうか。そして肉体の中にも?――私には分らないのである。この現実とつなぎ合せる手がかりが見当らない有様である。
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