紫大納言
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)贅肉《ぜいにく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)左京太夫|致忠《ムネタダ》

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 昔、花山院の御時、紫の大納言という人があった。贅肉《ぜいにく》がたまたま人の姿をかりたように、よくふとっていた。すでに五十の齢であったが、音にきこえた色好みには衰えもなく、夜毎におちこちの女に通った。白々明けの戻り道に、きぬぎぬの残り香をなつかしんでいるのであろうか、ねもやらず、縁にたたずみ、朝景色に見惚れている女の姿を垣間《かいま》見たりなどすることがあると、垣根のもとに忍び寄って、隙見する習いであった。怪しまれて誰何《すいか》を受けることがあれば、鶏や鼠のなき声を真似ることも古い習いとなっていたが、時々はまた、お楽しみなことでしたね、などと、通人のものとも見えぬ香《かんば》しからぬことを言って、満悦だった。垣根際の叢《くさむら》に、腰の下を露に濡らしてしまうことなど、気にかけたこともないたちだった。
 そのころ、左京太夫|致忠《ムネタダ》の四男に、藤原の保輔《やすすけ》という横ざまな男があった。甥《おい》にあたる右兵衛尉《うひょうえのじょう》斉明《トキアキラ》という若者を語らって、徒党をあつめ、盗賊の首領となった。伊勢の国鈴鹿の山や近江の高島に本拠を構えて、あまたの国々におしわたり、また都にも押し寄せて、人を殺《あや》め、美女をさらい、家を焼き、財宝をうばった。即ち今に悪名高い袴垂《はかまだ》れの保輔であった。
 袴垂れの徒党は、討伐の軍勢を蹴散らかすほど強力であったばかりでなく、狼藉の手口は残忍を極め、微塵《みじん》も雅風なく、また感傷のあともなかった。隊を分けて横行したので、都は一夜にその東西に火災を起し、また南北の路上には、貴賤富貴、老幼男女の選り好みなく斬り伏せられているのであった。そのさまは、魔風の走るにもみえ、人々は怖れ戦《おのの》いて、夕闇のせまる時刻になると、都大路もすでに通行の人影なく、ただあまたの蝙蝠《こうもり》がたそがれの澱みをわけて飛び交うばかりであった。
 恋のほかには余分の思案というものもない平安京の多感な郎子であったけれども、佳人のもとへ通う夜道の危なさには、粋一念の心掛けも、見栄の魔力も、及ばなかった。
 往昔、花の巴里《パリ》にも、そのような時があったそうな。十七世紀のことだから、この物語に比べれば、そう遠くもない昔である。スキュデリという才色一代を風靡《ふうび》した佳人があった。粋一念の恋人たちも、ちかごろの物騒さでは、各の佳人のもとへよう通うまいという王様の冗談に答えて、賊を怖れる恋人に恋人の資格はございませぬという意味を、二行の詩《うた》で返したという名高い話があるそうな。
 紫の大納言は、二寸の百足《むかで》に飛び退いたが、見たこともない幽霊はとんと怖れぬ人だったから、まだ出会わない盗賊には、怯《おび》える心がすくなかった。それゆえ、多感な郎子たちが、心にもあらず、恋人の役を怠りがちであったころ、この人ばかりは、とんと夜道の寂寞を訝《いぶか》りもせず、一夜の幸をあれこれと想い描いて歩くほかには、ついぞ余念に悩むことがないのであった。
 一夜、それは夏の夜のことだった。深草から醍醐《だいご》へ通う谷あいの径《みち》を歩いていると、にわかに鳴神がとどろきはじめた。よもの山々は稲妻のひかりに照りはえ、白昼のごとく現れて又掻き消えたが、その稲妻のひらめいたとき、径のかたえの叢に、あたかも稲妻に応えるように異様にかがやくものを見た。大納言はそれを拾った。それは一管の小笛であった。
 折しも雨はごうごうと降りしぶいて、地軸を流すようだったので、大納言は松の大樹の蔭にかくれて、はれまを待たねばならなかった。
 雨ははれた。谷あいの小径は、そうしてよもの山々は、すでに皓月《こうげつ》の下にくっきりと照らしだされているのであった。と、大納言の歩く行くてに、羅《うすもの》の白衣をまとうた女の姿が、月光をうしろにうけて、静かに立っているのであった。
「わたくしの笛をお返しなされて下さいませ」
 鈴のねのような声だった。それは凜然として命令の冷めたさが漲《みなぎ》っていた。
「わたくしは人の世の者ではございませぬ。月の国の姫にかしずく侍女のひとりでございますが、あやまって姫の寵愛の小笛を落し、それをとって戻らなければ、再び天上に住むことがかないませぬ。不愍《ふびん》と思い、それを返して下さりませ」
「はてさて、これは奇遇です」と、大納言は驚いて答えた。「私の祖父の家来であった年寄が、月の兎の餅《もち》を拾って食べたところ、三ヶ日は夜
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