目が見えたという話ならば聞き及んでおりましたが、月の姫の寵愛の笛をこの私めが拾う縁に当ろうなどとは、夢にも思うてみませんでした。なるほど、あなたの笛であってみれば、もとより、お返し致さぬという非道のある筈《はず》がございましょうか。けれども、このような稀有《けう》の奇縁を、ときのまのうちに失い去ってしまうことは、夢の中でもない限り、私共の地上では、決して致さぬならわしのものです。まず、ゆるゆると、異った世界の消息などを語りあうことに致しましょう。さいわい、ほど近い山科《やましな》の里に、私の召使う者の住居があります。むさぐるしい所ではありますが、あなたの暫《しば》しの御滞在に不自由は致させますまい」
天女はにわかに打ち驚いて、ありありと恐怖の色をあらわした。
「わたくしは急がなければなりませぬ」必死であった。「姫は待ちわびていらせられます」
「なんの、三日や五日のことが」と、大納言は天女の悲しむありさまを見て、満悦のために、不遜な笑《えみ》を鼻皺《はなじわ》にきざんだ。「浦島は乙姫の館に三日泊って、それが地上の三百年に当っていたという話ではありませんか。まして、月の国では、地上の三千年が三日ほどにも当りますまい。五日はおろか、十日、ひと月の御滞在でも、月の国では、姫君が、くさめを遊ばすあいだです。疑は人間にありとか、月の世界にくらべては、下界はただ卑しく汚い所ではありますが、又、それなりの風情もあれば楽しみもあります。恋のやみじに惑いもすれば、いとしい人に拗《す》ねてもみる。聞き及んだところでは、天上界はあなたのような乙女ばかりで男のいない処だとか、はてさて、それでは、あやがない。御覧《ごろう》じませ。あの山の端にかかっているあなたの国の月光が、なんと、私共の地上では、娘と男のはるかな想いを結びあわせる糸ともなれば、恋の涙を真珠にかえる役目もします。魚心あれば水心とは申しませぬ。五日の後に、この笛は、きっとおてもとに返しましょう。まず、それまでは、下界の風にも吹かれてみて、人間共のかげろうのいとなみを後日の笑いぐさになさいませ」
天女は涙をうかべた。
「天翔《あまが》ける衣が欲しいとは思いませぬか」必死に叫んだ。「あの大空をひととびにする衣ですよ。笛を返して下さる御礼に、次の月夜に、きっとお届け致しましょう。天女に偽《いつわり》はございませぬ」
「隠れ蓑の大納言とは聞き及びましたが、空飛びの大納言は珍聞です」と、大納言はにやにやした。「すらりとしたあなたならばいざ知らず、猪のようにふとった私が空を翔けても、とんと風味がありますまい。私は、こうして、京のおちこちを歩くだけで沢山です。唐、天竺《てんじく》の女のことまで気にかかっては、眠るいとまもありますまい。まあさ。郷に入っては郷に従えと云う通り、この国では、若い娘が男の顔をみるときは、笑顔をつくるものですよ」
大納言の官能は、したたか酩酊《めいてい》に及びはじめた。ふらりふらりと天女に近づき、片手で天女の片手をとり、片手で天女の頬っぺたを弾《はじ》きそうな様子であった。
天女は飛びのき、凜として、柳眉《りゅうび》を逆立てて、直立した。
「あとで悔いても及びませぬ。姫君のお仕置が怖しいとは思いませぬか」大納言を睨《にら》み、刺した。「月の国の仕返しを受けますよ」
「ワッハッハッハ。天つ乙女の軍勢が攻め寄せて来ますかな。いや、喜び勇んで一戦に応じましょう。一族郎党、さだめし勇み立って戦うことでありましょう。力つきれば、敗れることを悔いますまい。こうときまれば、愈《いよいよ》この笛は差上げられぬ」
天女は張りつめた力もくずれ、しくしく泣きだした。
大納言はそれを眺めて、満悦のためにだらしなくとろけた顔をにたにたさせて、喉を鳴らした。
天女の裳裾《もすそ》をとりあげて、泥を払ってやるふりをして、不思議な香気をたのしんだ。
「これさ。御案じなさることはありますまい。とって食おうとは申しませぬ」
大納言は食指をしゃぶって、意地悪く、天女の素足をつついた。泣きくれながら、本能的にあとずさり、すくみ、ふるえる天女の姿態を満喫して、しびれる官能をたのしんだ。
「とにかく、この山中では、打解けて話もできますまい。はじめて下界へお降りあそばしたこととて、心細さがひとしおとは察せられますが、それとてもこの世のならいによれば、忘れという魔者の使いが、一夜のうちに涙をふいてくれる筈。お望みならば、月の姫の御殿に劣らぬお住居もつくらせましょう。おや、知らないうちに、月もだいぶ上ったようです。まず、そろそろと、めあての家へ参ることに致しましょう」
大納言は天女のかいなを執り、ひきおこした。
天女は嘆き悲しんだが、大納言の決意の前には、及ばなかった。
大納言の言葉のままに、彼の召使う者の棲
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング