ために、あなたが地上の人となって下さるならば、笛をくだいて、焼きすてたいと思いました。賀茂川の瀬へ投げすてたいとも思いました。千尺の穴の底へうずめたいとも思いました。この一日、思いくらしていたのです。けれども、それは、できませぬ。あなたの嘆きを見ることが、地獄の責苦を見るにもまして、せつなかったからでした。私の涙に、つゆ偽はありませぬ。天よ。照覧あれ。私の命が笛にかえ得るものならば、たちどころに命を召されて、この場に笛となることを選びましょう」
 大納言は、瞑目《めいもく》し、いかずちの裁きを待って、突ったった。はらはらと、涙が流れた。くさむらの虫のなくねが、きこえていた。爽やかな夏の夜風のにおいがした。人の世のあのなつかしい跫音《あしおと》が、風にまぎれて、胸に通った。
「すでに、このようなことにもなり、小笛が帰らぬ今となっては、私の悔いの一念が笛と化して、月の国へあなたを運ぶよすがともならない限り、あきらめて、この悲しさに堪えて下さい。あなたの嘆きは私の身をそぐばかりでなく、地上のすべてを、暗く濡らしてしまいます。私共のならわしでは、あきらめが人の涙をかわかし、いつか忘れが訪れて、憂きことの多い人の世に、二度の花を運びます。地上の佗《わ》びしいならわしが、さいわいに、あなたの国のならわしでもあり得ますならば、忍び得ぬ嘆きに堪えて、なにとぞ地上にとどまり下さい。償いは、私が、地上で致しましょう。忘れの川、あきらめの野を呼びよせて、必ず涙を涸《か》らしましょう。あなたの悲しみのありさまあなたの涙を再び見ずにすむためならば、靴となって、あなたの足にふまれ、花となって、あなたの髪を飾ることをいといませぬ」
 天女は、さめざめと泣いていた。
 大納言の官能は一時に燃えた。思わずうろたえ、祈る眼差で、天をさがした。天もなく、月もなかった。あるものは、貧しい家の、暗い、汚い、天井ばかり。かすかな燈火がゆれていた。くらやみへ、祈る眼差を投げ捨てた。あたりが一時に遠のいて、曠野のなかに、心もなかった。血が、ながれた。大納言は、天女にとびかかって、だきすくめた。

 大納言は、夜道へさまよい落ちていた。
 夢の中の、しかと心に覚えられぬ遥かな契《ちぎ》りを結んだことが、遠く、いぶかしく、思われていた。それは悲しみの川となり、からだをめぐり、流れていた。
 月はすでに天心をまわり、西
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