太刀もやろう。欲しいものは、みんな、やろう」
「衣も、おくせ」
大納言は汗衫《かざみ》ひとつで、月光の下の小径を走っていた。
暈《かさ》さえもない皓月をふり仰ぎながら、それに向って、声一杯訴えたい切なさが、胸をさき、あふれでようとするのであった。御覧の通りの仕儀なのでした。無道な賊が現れて、笛を奪ってしまったのです。非力の私に、どうするてだてがありましょう。御覧なさい。私は太刀も奪われました。衣も奪われてしまったのです。残ったものは、汗衫ひとつと、命だけ。どうにも仕方がなかったのです。神々よ。私のせつない悲しさを照覧あれ、と。あつい涙が、頬を流れた。むしろ天女に慰めてもらえる権利があるような、子供ごころの嘆きがつのった。
山科の家へ辿りついて、彼は叫んだ。
「あなたのふるさとであるところのあの清らかな月の光が、すべてを見ていた筈でした。私は笛をとられました。丁度あなたの小笛を拾ったあのあたりで、数名の無道の賊徒が現れて、いきなり、小笛をとりました。それから、太刀も、衣も、とりました。命をとられなかったのが、不思議です。いいえ、私は、命が惜しいとはつゆ思いませぬ。それが償いとなるならば、即坐に一命を断つことも辞しますまい。あなたの命とも申すような大切な小笛を奪いとられた悲しさに、私の涙が赤い血潮とならないことが、もどかしい。あなたの嘆き悲しむさまを、今宵も亦《また》、再び見なければならないことが、一命を失うよりも、せつないのです」
大納言は、うちもだえ、うちふして、慟哭《どうこく》した。
天女は立った。大納言を見下して、涙に、怒りが凍っていた。
「償いに命を断つと仰有《おっしゃ》るならば、なぜ、命をすてて小笛をまもって下さいませぬ。心にもない涙ほど愚かなものはありませぬ」天女は、むせび、泣いた。「いいえ。小笛は、盗まれたのではありませぬ。あなたがお捨てあそばしたのです。卑劣な言い訳を仰有いますな。笛を返して下さいませ。いま、すぐ、返して、下さいませ。月の姫が、何物にもまして、御寵愛の小笛です」
「これは又、悲しいお言葉をきくものです」と、大納言は恨みをこめて天女をみた。「あなたの嘆きを見ることが、天地の死滅を見るよりも悲しい私でございませんか。もしも、たしかに捨てた笛なら、言い訳は致しますまい。いかにも、私は、捨てたい心はありました。あの笛が姿を消して、その
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング