らぬ。そうして、あのまっしろなししあいを得るためにも――そういうことも、思われた。
 あの、まっしろなししあいが、もはや、大納言のすべてであった。どのように無残なふるまいを敢てしても、あのししあいをわがものとしなければならぬと彼は思った。
 天も、神も、皓月も、また悪鬼も、この怖ろしい無道を、よく見ているがいい。どのような報いも受けよう。あのひとのししあいを得てのちならば、一瞬にして、命を召されることも怖れはしまい。悔いもしまい。命をかけての恋ならば、たとい万死に価しても、なお、一滴の涙、草の葉の露の涙、くさむらにすだく虫のはかないあわれみ、それをかけてくれるものが、何者か、あるような思いがした。
 たそがれ、大納言は小笛をたずさえてわが家をでた。
 道へでて、はじめて心は勇みたち、のどかであった。一夜のさちを、あれこれと思う心が戻っていた。澄んだ、ゆたかな、ししあいを思った。やわらかな胸と、嘆きにぬれた顔を思った。ゆたかに延びた手と脚を思った。祈る目と、すくむししむらと、そよぐ髪と、ふるえる小さな指を思った。四方の山も、森も、闇も、踏む足も、忘れた。
 日が暮れて、月がでた。山の端にさしでた月の光から身を隠すよすがもなかったが、たじろぐ胸をはげます力も溢《あふ》れていた。怖ろしい何者もない思いがした。月に小笛を見られることも、怖れなかった。昨日、小笛を拾った場所へ近づいた。
 と、谷あいのしじまを破る気配がした。木蔭から月光の下へ躍りでて、行くてをふさいだものがある。四人、五人、また一人。現れたものは太刀をぬいて、すでに彼をとりまいていた。
 大納言はその場へくずれて坐ったことも気付かなかった。思わず小笛をとり落した。むなしく月の使者達を眺めた。そうして、声がでなかった。と、然し、彼等が袴垂れの徒党であると分ったときには、安堵のために、思わず深い放心を覚えた。
 やにわに、彼は、落した小笛をとりあげて、まず、まっさきに、盗人の前へ差しだした。
「これをやろう!」
 こみあげてくる言葉に追われて、はずむ声で、彼は叫んだ。
「命にかえられぬ秘蔵の品だが、とりかこまれては是非もない。これを奪って、今宵第一の獲物にせよ」
 盗人は大納言の手中から無造作に小笛をひったくり、返す手で、大納言のたるんだ頬を小笛でピシリとひっぱたいた。大納言はようやく、気付いて、うろたえた。

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