うと言ふのである。
弾雨の下に休息を感じてゐる兵士達に、果して「死」があつたか? 事実として、二三の戦死があつたとしても、兵士達の心が死をみつめてゐたか? この疑問を忘れてはならない。
すくなくとも、兵士達が弾雨の下に休息を感じてゐるとすれば、彼等はそのとき「自分はこゝで死ぬかも知れない」といふ不安が多少はあつても、それよりも一さう強く「多分自分は死なゝいだらう」と考へてゐたに相違ないのだ。偶然弾に当つても、その瞬間まで彼等の心は死に直面し、死を視凝《みつ》めてはゐないのだ。
このやうなゆとり[#「ゆとり」に傍点]があるとき、兵士は鼻唄と共に進みうる。「必ず死ぬ」ときまつたときに、果して誰が鼻唄と共に前進しうるか。そのとき、進みうる人は超人だ。常人は「必ず死ぬ」となれば怯える。従而《したがつて》戦争を「死の絶望」に関してのみ見る限り、決死隊をのぞいては、進む兵士は必ずしも戦争を、死を、見てゐるとは限らない。
ヤンキーが戦争をスポーツなみに考へて、女の子の拍手に送られ、鼻唄と共に出征しても、それと戦場の強さとは自ら問題が別である。彼等の鼻唄は「多分死にはしないだらう」といふ意識下
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