きてよ。待ってるのよ」
「あなたは誰ですか」
「××館よ。お客さんにたのまれたからさ。あの人よんでおいで、コーダンの坂口さんだからッてさ」
「お客さんて、誰?」
「知らないわ。来てみれば、分るでしょう」
「女?」
「ウフ」
と、女は笑った。恐しくなめられたものである。
「××館、あそこよ。知ってるでしょう」
女は自転車にのって走りだした。女が美人だとノコノコついて行く性分だそうだが、不美人になめられては、ながく魂をぬかれているわけにもいかない。ウッカリすると自動車にひかれるから、彼はふりむいて歩きだす。
女が怒ってフルスピードで戻ってきた。
「なによ、あんた! きこえなかったの。私の言ったことが」
目から火焔がふいている。
「待ってるわよ。そう言ったじゃないの!」
「女?」
「まだ言ってるわね」
女は呆れて苦笑したが、わが意を得たりという親愛の情も同時にこもって、
「そんな人、いるの? ウフ。夢見ちゃダメよ。お気の毒さまだ。私がなってあげようか。アッハッハ。ウソだよ。本気にしてダメだよ」
と、いくらかてれた。
彼女が笑ったので、口が蟇口《がまぐち》のように大きいのが分った。かの巷談師はこの言葉が気に入ったので、おとなしくついて行くことになった。
××館は三流旅館である。学生街の下宿屋と同じようだ。日当りの悪い小部屋に、男が私を待っていた。
行儀の悪い奴で、フトンをしきッ放して、まだ、ねころんでいる。クビにホータイをまいている。ノドをつぶした旅廻りの浪花節語りという風情である。貧相なチョビヒゲを生やしているが、ヒゲも共に笑うがごとく、にこやかな微苦笑をただよわして、
「便所の窓から君の通る姿を見かけたんだよ。ぼくは君を知らなかったが、便所に来合していた男が――臭い話だね。あれが巷談の安吾氏だというから、ぼくは急いで女中をよんで、きてもらったわけだ。アハハ。まア、君、こッちへ来たまえ」
男はフトンの上に半身を起し片肱で支えている。タバコをにぎった片手で私をさしまねいて、枕元へきて灰皿の向う側へ坐れというサインである。くたびれたフトンや男の様子から血を吸う虫とバイキンがウヨウヨいそうであるから、私は遠慮して卓にもたれた。
「君の巷談、よみましたね。競輪。負けッぷりはお見事だが、あれはいけないよ。競輪は一レースに五百円、ま、一日五千円程度で勝負するものだ。それで、まア、倍にもうける。その程度、ね。そういうものよ。それでぼくはこうして結構遊んでいられるのよ。アレが安吾氏だというからね。ふッと閃いたわけだ。競輪のコツを伝授しようと思ってさ。あの負けッぷりが好きだからよ」
淡々たる武者ぶりである。名乗りもあげないし、イラッシャイも、言わない。よく来てくれた、などとも言わない。別段、軽蔑しているのでもないようだ。なぜなら気どってもいないようだから。どういうコンタンだか分らないが、天下の巷談師をてんで買っていないのは確かである。
「今夜だと、尚よかったんだが、君、出直してくるかい? 夜の八時ごろ、使いの者が、こッちへくるんだね。今、小田原で競輪やってッだろ。明日から二節だ。明日の出走表が八時半には、ぼくに届くのよ。それを見て、教えてあげる。初心者にはこれに限るのよ。むずかしい理窟は早急に呑みこめやしないものさ。理窟じゃないが、上りタイム、過去の戦績、これを知りつくして半人前だね。地足の良し悪し、これも常識のうち。その他、多々あり、としておこうよ」
男は枕もとから一山の紙をザックと一握りして、投げてよこした。各地の競輪新聞である。関東各地のほかに、岐阜、鳴尾、住之江などゝいうのがある。紙面の各々には判読に苦しむ細かさでベッタリ朱筆がいれてあった。
「君、競輪、商売にしてる人かい?」
ときくと、つまらなそうに、うつむいて、
「まアね。そう言われても、仕方がない。ヤクザじゃないがね。予想屋でもやろうかと思ってはいるが、脚がこれでね」
フトンをのけて見せた。片脚が義足なのである。
「ぼくは罪なことのできない性分だから、予想屋じゃ客がつかないだろうよ。ぼくは、こう言うな。穴をねらッちゃいかん。レースを全部買うな。分らん時は、おりることよ」
「戦争で負傷したのかい?」
と、私はきいた。
男は首を横にふって、
「工場でよ。どうやら、ぼくの不注意からなのさ」
彼はニッと笑った。宿命に安んじているのかも知れない。
私は彼を見直した。工場でうけた傷でも、こんな時には、戦傷にするのが人情だ。見知らぬ私をひきいれて、駄ボラを吹いている最中だからである。してみると、この男の話は駄ボラじゃないのかも知れない。
彼は疲れたのかドッコイショとねころんで枕をつけて、
「今夜、出直しておいで。それが、いいよ。出走表を見て、教えてあげるよ。確実
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