なところだけね。穴はよしな。八時半に、きなよ」
私も立上って、
「もう競輪へ行く気がないから、たぶん、来ないだろうよ。だが、気が変ったら、その時は教えてもらうよ」
彼はうなずいた。
「競輪でぼくを見かけたら、声をかけな。教えてあげる」
彼は眼をとじて、呟いた。
私はだまって部屋を去った。
これも巷談の反響なのである。競輪の反響は共産党以上に凄かった。競輪のせちがらい性格によって、その反響には凄味がこもっていたのである。もっとも凄味のこもった手紙は多くはないが、こもった凄味は格別だった。
それをあからさまには書けないが――というのは、当人の家族や知人に知れると気の毒だからで、一方巷談師はゾッとすくむようなのが舞いこんでくるのであった。
二葉の写真(自分の姿を撮したもの)と履歴書を同封してきた老人があった。英国に留学し、二三会社の社長をつとめ、公務で何回か渡欧した経歴をもつが、今は落ちぶれている人である。落ちぶれる経路は手紙にルルしたためてあり、それは陰惨そのものであるが、これも書くわけにはいかない。
彼は私が競輪で数万円を事もなげに失ったのを読んで、目をつけたのである。彼は競輪は知らないのである。しかし英国滞在中見物のダービー以来、競馬には病みつきで、私を競馬に誘っているのだ。自分は一文も持たないから、お前五万円もってこい。それを三日間で五百万円にしてやるから、その分け前をもらいたい、というわけだ。
荒筋はこれだけだが、彼が昔の栄華を語り、今の貧窮や家族について語っている言葉には、まさしく妖気がこもっていた。私は彼にはるか東北の競馬にさそわれ、どこかの山中で毒殺されるような幻想を起したほどである。
共産党とちがって、彼はつとめて、私を怖がらせまい、安心させよう、と努力しているのである。近影と共に全盛時代の写真を同封したのも、そのためかも知れない。
そして手紙の所々に於て、自分が狂人ではないこと、自分の精神は分裂していないから安心してくれということを力説しているのである。
甚しい窮乏に踏みにじられている衰弱をさしひけば、彼の力説する通り、彼は狂人ではないらしい。
しかし私は五万円フトコロに、もしも誰かと競馬へ行かねばならぬとすれば、彼と同行するよりは、ホンモノの狂人と同行することを選ぶだろう。
彼は手紙の末尾に、万々そういうことはなかろうが、事志とちがって五万円のモトデを失うようなハメになったら、そのときは身の上話をするから、それを小説にかいて埋合せをつけてくれ、と結んであった。彼は私が小説家であることを知っているのである。
しかし、一般に、巷談の読者は、私に小説家という別業があることなどを知らない人が多いようだ。つまり、単に巷談師だ。
「ヤ。あんたが安吾巷談か」
私が友人と酒をのんでいると、友人をかきのけるようにして、私に握手をもとめた酔っ払いがある。たまに上京して、マーケットでのんでいた時だ。
「今、京王閣の帰りでね。今日は、もうけたです。C級をねらった。彼を一目見たとき、パッときた。これだ! と思ったんだ。誰も入着を予想してない選手なんだ。十枚買った。きたね! サン・キュー」
彼は私のビールをとってグッと呷《あお》った。
「君が安吾巷談かア」
私の肩に両手をかけて、ガクガクゆさぶって親愛の情をヒレキし、しげしげと見つめて、
「ウム! なるほど! 偉いぞ! お前はたしかに金持の人相をしとるぞ。それだ! それでいけ! お前も今につくぞ!」
私を大激励して、とたんにゲラゲラ笑いだした。
「しかし、君。オイ、安吾巷談! まア、のもう」
私にビールをつがせてグッと呷り、再び握手を交した。
「あれはいいぞ。安吾巷談。な。よく見ている。初心者の甘さもあるが、よく見ている。みんな、ほめてるぞ。あれで行けよ」
と、ほめて、はげましてくれた。損をした日は、ほめてくれないように見えたが、私のヒガミかも知れない。
共産党とちがって、競輪の手紙は、二三の妖気ただよう例外をのぞいて、概して景気よく明るい。
しかし、手紙をよんでみると、私に手紙をくれたイワレがわからないのである。なぜなら、安吾巷談にはチョッピリふれているだけで、それも書簡の義理として、ちょッとふれておくという投げやりな様子が露骨だからである。彼らは私の巷談に説く必勝法には同感していないのである。さりとて反駁するわけでもなく、又、皮肉るような悪意はミジンもない。つまり彼らは私を親友として扱ってくれているのである。
なぜ私に手紙をくれるかというと、もうけた話をきかせるためである。もうけたレースの競輪新聞を十枚ぐらい同封し、どこを狙って中穴をしとめたか、人の気付かぬ急所をついた手柄話を楽しそうに書いている。それだけなのだ。それをきかせたい楽しさで
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