みる切なさは、その山影をだいて死にたいやうであつた。
それからの丁度一年間、私は七百枚の小説を机の上に置きすてて、毎日毎夜、碁を打つてゐた。そして夜更の十二時、一時頃、碁をやめて、十二銭の酒をのみ、豚の如くに眠つた。七百枚の小説には、一年間の埃がつもり、もう字の色は見えず、埃だけが、黒ずむやうになつてゐたのだ。
私はなぜこの小説を破りすてる勇気がなかつたのであらうか。もし又私がこの小説を本にするには、一年前に本にすることができた筈だ。私は貧乏で困つてをり、一ヶ月三十円ぐらゐで生きてをり、出版屋は東京から、小説の完成をサイソクしつづけてゐた。私は然し一ヶ年、日毎に埃のつもる原稿を、ふと見るだけの力もなく、空しく自暴自棄の胸の怒りをつのらせてゐた。なぜこの小説を破ることができなかつたのか。私は不思議でもあるが、無理もないと思ひもする。
あの頃、私は、何度も死なうと思つたか知れないのだ。私の才能に絶望した。こんなものしか、こんな嘘しか、心にもないことしか、書けないのかと思つたから。私は私の小説を破るよりも、私の身体を殺したかつた。私はインチキなのだ。私のインチキ小説よりも、もつと激しく
前へ
次へ
全11ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング