砂をかむ
坂口安吾
五十ちかい年になってはじめて子ができるというのは戸惑うものである。できるべくしてできたというのと感じがちがって、ありうべからざることが起ったような気持の方が強いものだ。大そうてれくさい。お子さんは近ごろ、なぞと人に云われると、それだけでてれたりしてしまう。
そんなわけで、自分を子供になんと呼ばせるかということでは苦労した。お父さん、というのはてれくさくていけない。子供にお父さんなぞと呼ばれると、生きてる限りぞッとしなければならないような気持で、子供の生れたては気が滅入ってこまったものであった。日本では(たぶん外国でもそうらしいが)子ができると女房までにわかに亭主をお父さんと呼びかえるような習いがあるから、いろいろ思い合せて薄気味わるくなるばかりであった。
結局パパママというのを採用することにしたが、これはよその国の言葉だから、全然実感がなくてよい。陰にこもったところがない。子供や女房にパパとよばれても人ごとのようにサラサラしていて直接肌にさわられるようなイヤらしさがなくてよかった。
けれども、なにぶん五十にもなって生れてはじめて使いはじめた言葉であるから、
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