使う方でも全然実感がわかないのである。父がパパで、母がママだというのは英語の本を読む時には間違う心配がないものだが、さて当人が日常実用するとなるとそうはいかないもので、自分のことをママと云ってしまったり、女房をパパと云ってしまったりで、混乱してしまう。一度その混乱がはじまると、それが意識にからむから、益々混乱がはげしくなる。五十の手習いはおそすぎるということをしみじみ味った次第である。
 オヤジがこの状態であるから、ちかごろ子供の奴がパパとママに混乱を起してしまった。奴も自信がなくなってしまって、私をママとよんで様子を見たり、パパとよんで、すぐママと云い直してみたりのあげく、ちかごろでは私と女房のどちらに話しかけるにもパパママと二ツつづけて云うようになった。私も女房もパパママである。なるほどこれならどちらか当っているから心配ない。奴めも、これなら、という自信ありげな顔である。そういう子供の顔を見ると、なさけないことになったなと思う。よその国の言葉をうかつに日常用に採用すべきではないらしい。もっともこれは私だけで、女房はマチガイを起さないから、年のせいかと考えている。できないつもりの子供
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