とが時々あるやうだね。単に建物だとかその暗い壁だとか、そんな物に変にがつちりした存在を感じて敗北を噛みしめるばかりではない、自分が現に存在し、又寺の一隅に坐つてゐることに対して無意味を痛感し、痛感するばかりでなく、そのことがすでに又無意味に思はれる程何かがつかり[#「がつかり」に傍点]した倦怠を感じ、それと一緒に自分の存在がいつぺんに信じられなくなつてくる。それが、自分の心の中でさう思ひ当るばかりでない、自分よりももつと強烈な生命力を持つこの建物の意志の中に、妙にみぢめに比較されてさういふ倦怠の気配を感得するから、実に実にやり切れない心細さに襲はれてしまふ……」
「それはさうだらうね。君の場合には棲む場所が直接この強烈な建築だから、だからつまり建築を対象にしてさう感じてしまふのだらうけど、僕の生活には建築なんぞ大した関係を持たないから、何か漠然とした一つの全体を対象として……」
 凡太は同感してそんなことを言ひかけたが、議論の対象そのものが茫漠として所詮は一生の十字架であり、口に乗せて弄ぶのも無役であると思はれたので、さつさと口を噤んで沈黙してしまつた。それに凡太は、由来自分の虚無思想に対しては甚だ謙虚な心を懐いてゐて、自分はとうてい[#「とうてい」に傍点]虚無に殉ずる底の深遠な実際を味得しうる人物ではない、自分は浅薄な男で、本来楽天主義者でもなければ虚無主義者でもなく、常に何事も突き詰めることを避けるところのいはば一種の気分的人生ファンで、取柄といへばその自分の人生に対して甚だ冷淡そのものであること、それくらいなものであらうとあきらめ[#「あきらめ」に傍点]をつけてゐたから、人生を理論で争ふ意志は毛頭持たなかつたばかりでなく、他人の深い虚無感に対しては、常にこれを深刻なる先輩として、実際まぢめな意味で若干の敬意を払ふことにしてゐた。彼はただ、彼自身の立場としては全てを漠然と感じればそれでよい、それを単に言葉に表はして憂鬱なる一時《ひととき》をさらに憂鬱にすることは退屈以外の何物でもあり得ない――実際それは退屈以外の何物でもなかつたから、その時も彼はいそいで口を噤むと、もはや別の事をぼんやり考へはぢめて、一体全体そもそもこの龍然と呼ぶどんよりとした坊主が、通夜の席上で啖呵を切つたといふ耳よりなゴシップは果して真実であるのか、と、そんなことにひどく興味を持ち出してゐた。
「いつたい、君が大いに啖呵を切つたといふのは、ほんとうの話かね?」
「それはほんとうの話さ。一座の連中をすつかり慄へ上らして来たよ。尤も腹の中では、僕は大いにいたづらな気持だつたがね……」
 と、龍然は例の至極あたりまへな顔付に、それでも少し苦笑を浮べて、あああああ……と奇声をたてながら実にだらしなく欠伸《あくび》をした。
 ところがその翌日、意外千万な出来事が起つた。事件そのものが甚だ意外であつたばかりでなく、事件の原因をなしたところのものが実に奇想天外――いや、これも亦凡太の意識内に於ける不屈な好奇心の説明であるが、とにかく奇抜千万であつたために、凡太はひどく奇異を感じた。即ち、龍然は通夜の席上で実際憤然として悲憤慷慨の演説を試みたばかりではない、しかも屡々過激な言辞を弄して資本主義ならびにブルヂョアを攻撃したといふのである。勿論それは、相手が県内でも有数な勢力家であるために、針小棒大に誣告《ぶこく》して司直の手を煩はしたことかも知れない。しかしとにかく、厳めしい佩剣《はいけん》の音が翌日山門を潜つたのは事実で、それは村の駐在巡査が一人の高等係を案内して寺を訪れたのであつた。高等係はしかし案外物の分つた男とみえて、田舎なまりの割合に温和な口調で、無論相手が相手のことで物の分らない富豪のことだから、何かの反感で無理に口実をつけたのであらうけれども、その方面には弱い警官のことであるから余儀なく義務上一応お訪ねしただけの話で、決して貴僧に疑ひをかけてゐるわけではないが……などと、くどくど長く述べ立ててゐた。凡太は隣室の唐紙に凭れて息を凝しながら形勢を展望してゐたが、刑事の言葉には裏にも毒がないやうに思はれたので、ほつと安心はしたものの実のところは気抜けがして、虻の羽音のやうな話声をもはやそれ以止注意して聴こうともしなかつた。すると突然大変な物音が隣室に湧き起つたので思はず彼は唐紙から身を離すと、それは丁度発狂した男がその最初の発作に発するであらうやうな激越を極めた金切声で、疑ひもなくそれは龍然の叫喚であつたが、龍然は単に叫喚するばかりではない、恐らくは部屋一面を舞台にして縦横無尽に地団太踏んでゐるものらしい猛烈な物音であつた。聴いてゐると、しかしそれは単なる叫喚ではない、たしかに龍然としては何事か一意専心演説を試みてゐるものに相違ない、それが今迄演説とは気付かなかつたのはあながち金切声のせいばかりではなく、正気できいたら噴き出さずにはゐられぬやうな支離滅裂を極めた句と句の羅列であつたからで、「大日本帝国は万世一系の……」と言つてゐるかと思ふと、「ああ拙僧の名誉も地に落ちたり、忠君愛国のほまれも空し、ああ悲しい哉……」「印度に釈迦|瞿曇《くどん》生誕してここに二千有余年――」等々々。
 凡太は一体龍然の学識には相当の敬意を払つてゐたのだつた。それは彼が初めてこの寺へ第一歩を踏み入れた夜のこと、龍然はその書院にかなり堆《うずたか》く積まれた書籍を隠すやうにしながら、「売り払ふ古本屋も山の中には無いので……」と恥ぢた顔付をした。凡太の経験に由れば、書籍を所有することに心から恥を持つ人は、おほむね勝れた学識を持つ人達であつたから、龍然の学識に対しても、忽ちこの時から敬意を払ふことにして、別にそれ以来議論を交したこともないから、そのままその時の敬意を払ひつづけてゐたのだつた。ところが隣座敷の狂態たるや支離滅裂も何もあつたものではない、土台論理も論旨もあるわけでなく言葉の体裁をさへ調へてはおらぬのだから、或ひは発狂したのでもあらうかと思へば、恐らくさうでもないのであらう、刑事もつくづく度胆を抜かれてやうやくに龍然を宥めすかし、飛んだ疑ひをかけて相済まない、今となつては青天白日で貴僧の名誉に傷はつけないから――と詫びながら舞ふやうにして退却した。凡太もほつと安堵して玄関へ龍然を迎へに行くと、龍然はもう、どこを風が吹くのかといふやうに、いつもの通りあつけらかんと残骸のやうなしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]した顔をして戻つて来るところだつた。凡太が歩み寄つて龍然の肩をたたくと、別にそれに報ひやうとする顔付もせず、二人肩を並べて黙々と書院へ歩き出したが、敷居を股ぐ時、龍然は鼻を鴨居へ押しつけるばかりにして、あはあはあは……と笑ひ出した。凡太はすつかり毒気を抜かれて、今のは芝居だつたのかい、と訊いてみるのも莫迦らしい程がつかりした気落ちがしたので、いささか胆の白くなる驚嘆を味はひながら、一体この坊主は莫迦なのか悧巧なのか手に負へない怪物だと考へた。
 其の後、もう来ないのかと思つてゐた女は、相変らず毎夜龍然を訪れて来た。どういふ変化があるだらうと聴耳をたててゐても、別に変つたこともない、離れにぢつと瞑目して机に凭れて頬杖をついてゐると、すぐ目の先にある小さな古沼、それを越してすぐさま丘の上にある墓地、その又上にひつそりとしてゐる山の腹、都合三段の静寂な気配がそれぞれのニュアンスを持つて、もうすつかり闌けてしまつた初秋の香りを運んだ。なぜだか、身体がやはり一つの気配となつて朦朧とさまよつてゐるやうな、爽やかではあるが一種ぢつとりと落ちついた重い侘びしさが、物体に障碍されることなく一面に流れ漂ふてゐた。いはば、まるで現実とは別種な感覚の世界を創造するもののやうに、目を瞑ると、甘い哀愁の世界がひろびろと窓を開いて通じてゐた。それは「無」――実際は、無といふにはあまりにも一色《ひといろ》の「心」に満ちた、蕭条とした路であつた。それは事実、路といふ感じがした。
 由良とも友達になつてゐるのだから、二人打ち連れて遊びにおしかけて来はしないかと、凡太はそれとなく待ち構えてゐたが、別に来るやうなこともない、龍然はあの夜のことを知らないのであらうかとある日訊ねてみたところが、ああ、さうさう、さういふ話をきいてゐた、君によろしく伝へてくれと言ふことだつた、いよいよ俺達も別れることに決つてね、なぞと落ついた返事だつた。
「あの女は別に女衒と一緒に東京へ行かなくとも良いのだから、君さへ邪魔でなかつたら、君の帰る時あれも一緒に連れてつて貰ひたいと言つてゐたよ。東京に知り合があると思へば心強く暮せることだらうからね。ぜひ一緒に連れて帰つて今後も力になつて呉れたまへ。いづれ今晩でも改めておひき合せしやうから。まつたく僕もあの女と別れることになつてせいせい[#「せいせい」に傍点]したよ」
 龍然はそんなことを言ひながら、無心に鼻の油を拭いてゐたりした。そのくせ、やはり女と別れることが、別れ切れない心持もあるのであつた。丁度その頃のことであつたらう、凡太と龍然はある黄昏の杉並木を金比羅大明神の方へ散歩にぶらついてゐたが、嶮しく高い坂道の途中で、偶然上の方からただ一人下りてくる例の女衒に擦れ違つたのであつた。女衒は手に短い杉の小枝を携へてゐて、それを弄びながら急ぎ足ですたすた下りていつたのだが――その時凡太は、それは恐らくその時の結果から推してさう思ひ当るのかも知れないけれど、もし自分が龍然の身の上で、そして今自分一人でこんな山奥に女衒と擦れ違つたとしたならば、或ひは自分は女衒を殺害して谷底へ埋めてしまふかも知れない……と、そんな風な空想をたしかその時めぐらしたやうに思ひ出されるのであつた。しかし龍然はまるで何でもない顔付で、女衒の存在にさへ気付かぬやうな物腰でやり過してしまつたから、凡太はほつとして、これは龍然は女衒の顔を知らぬのかしら等と考へながら上の杉並木を洩れる空模様を仰いで息を吸つた。するといきなり耳もとで、さつと風を切る激しい音がした。
「女衒はよくないぞ!」
 龍然は坂の下をぢつと睨んで直立してゐたが、鋭く張つた四角な肩に激しく息を呑む気勢が感ぜられた。凡太も坂下の方を見下すと、叫ぶよりも前に龍然の手から投げられてゐた下駄が、女衒には当らずに、一本の杉の幹に痛々とした跡を残して、尚ころころと一二間ころげて止まるのが見えた。女衒は腰を浮かせて逃げかけたが、龍然の気配に追求のないのを見てとると、卑屈にねちねちした度胸を見せて、知らぬ顔を粧ひながら麓の方へすたすた降りていつた。流石にその日龍然は、息の乱れを収めてもとの顔付にもどるまで十数歩の歩行を要したが、それも収まると、また超然とした残骸に還元して、一方の足は跣《はだし》にしたまま長い坂道を傾きながら歩いた。凡太は何とも言へぬ寂漠を感じて、君、足は痛まないのかと訊いてみるにも言葉はもはや不用なものに考へられ、胎内に充満してくる空虚を味得した。
 もう山は秋が深い。それは、昼の明るさが尚寂寥に堪えがたくて、ひたすら死滅へ急ぐもののやうにしか考へられぬ蝉の音の慌ただしさや、已にいそがわしく遠い空に走り初めた幾流れもの雲や、そしてぽつかりと空洞《うつろ》に落ちたこの明るさ――ひとまづこれで、ぱつたりと杜絶する生活力の断末魔《あごにい》が山といふ山に、路に、藁屋根に、目に泌みるリズムとなつて流れてゐる。女衒もすでに黒谷村を去つて、沈滞した村の軒からは、何か呟く呪ひの声が洩れてくるもののやうに感ぜられた。そして龍然は、物置から埃まみれな草履を一つ探し出して、下駄とちんばにこれを突つかけながら、黒い法衣を秋風にさらし、流れはぢめた雲の慌ただしさに狂燥を感ずるものの如く、村の法用に山門をいそがしく往来してゐた。凡太はぢつと帰ることを考へた、いやむしろ、立ち去つた後の黒谷村の侘しさを、恰かもそれが永遠に自分の棲まねばならぬ運命の地であるかのやうに、呆然と思ひやる日が多かつた。
 もう九月に這入つた一日、凡太はいよいよ出立した。その未明、まだ明け切らぬ黒谷
前へ 次へ
全6ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング