ライゲンは、凡太の古来最も共鳴を感ずる一情景で、凡太は彼自身の心細い生存を、このやうに甘美な狂燥と共に空へ撒きすてて死滅へまでの連鎖を辿りたいと、日頃念願して止まなかつた。彼が止みがたい放浪を感ずるのも、一つにはこの狂燥の染《しみ》が、あまりやるせないリズムを低く響かせるから。――凡太は金比羅大明神の前栽に、深く深く流れてゐる感慨の香気に噎びながら、それに溶けてゆく無我のよろこびを感じた。
 円舞をとりまいてゐる観衆の円陣を、さらに二人は遠くから黙々と一廻りした。このとき、しかし凡太の浸つてゐた静かな雰囲気は、さう長くは続かなかつた。――暗い群衆の中頃から一つの頭がゆらゆらと揺れて出て、由良の背中を追ふて来たが、「姐さん、一寸お願ひが……、」そんな低い声を耳にしたまま、凡太はしかし一人五六歩ばかりなほ前方へ歩きすぎて静かに振り向いた。それは、角帯に頭を商人風に当つた、一見どこやらの番頭といふ風態の小男であつた。二人の男女は早口に何か二三受け答へしてゐたかと思ふうちに、由良は間もなくさつさと男から離れて凡太の方へ近寄つて来たが、その顔には気の抜けきつて感情といふもののまるで無い白さを漂はして、ぢつと凡太と向き合はせた。
「さよなら……」
「さよなら」
「――あいつ、さつきお話した女衒……」
「女衒?――」
 その時由良はもう振り向いて――背中を彼等二人の方へ向けながら、一人ぶらぶら群衆から離れて空を見ながらぶらついてゐる女衒の方へ、歩き出してゐた。見てゐると、二人は何事かひそひそ相談してゐたが、やがて女衒はまだその方をぼんやり見つめてゐる凡太の姿に気づいて、遠くから会釈した。凡太はひどく狼狽してそそくさ会釈を返したが、気まづくなつたので、一人ぽくぽくと又一度かなり大きい円陣を、時々立ち止つては中の踊りを覗き込みながら歩いた。それから、思ひ切つて金比羅山を振り棄てると、いま登つてきた坂道をすたすたと黒い黒い塊の中へ速足《はやあし》で下りはぢめたが、自然の加速度で猛烈な速力となり麓までは夢のうちに降りたまま、麓でも止まることが出来ずに次の坂道へ十歩ほど余勢で駈けてほつと止つた。凡太は其処から、何の気もなく今駈け降りた山を振り仰いだが、もはや群衆の喚声もさだかではなかつたし、燈火も無論洩れ落ちては来ない、ただひたひたと流れるやうな哀愁が、深い一種の気分となつて彼の胎内を隈なく占領してゐた。凡太はそれにぢつと浸りながら、本街道に沿ふて平行に流れてゐる暗い嶮しい間道を伝ひ、ひつそりと音の落ちた山を二つ越えてから本街道へ現れてみると、もう黒谷村の家並を遠く通過して、熊笹ばかり繁茂した黒谷峠のただ中へ、間もなく迷ひ込むばかりの、そんな地点に当つてゐる憂鬱な杜だつた。凡太はいそがわしく廻れ右をして、今度は本街道伝ひに黒谷村へ戻りついたが、恰も長い長い歴史の中を通過してきたかのやうに感じながら、居酒屋の灯を見出してそれを潜つた。居酒屋の女中も盆踊りにまよひ出て、ほの暗い土間の中には老婆が一人睡ぶたげな屈託顔をしてゐたが、凡太は二階へ通らずに、一脚の卓によつて酒を求めた。
「もう若い者はいつこうに踊りに夢中でして――」と、老婆は黒谷村に不似合な世馴れた笑ひを浮べながら、この村では出稼ぎの女工達も踊りたいばかりに盆を待ちかねて帰省するが、なぞと語つた。凡太はむやみに同感して深くうなづいてみせた。此処へ来て酒を掬むに、あの甘美な哀愁はなほ身辺を立ち去ることなく低く四方に蹌踉し、むしろその香わしい震幅を深くするやうに感ぜられた。彼はこの旅に出て以来《このかた》といふもの、この夜ほど深い満足と共に杯を把りあげたことは無かつたので、盛んに饒舌を吐きちらしながら盃を重ねてゐたが、遂ひには軽快な泥酔状態に落ちて、老婆を相手に難解な術語などを弄しながら人生観を論じ初めたりしたが、老婆は至極愛想が好くて、「さうですぜの、ほんとうに、その通りですぜの」と相槌を打つてゐた。やがて夜が一段と更けて、壁の中から何か古臭い沈黙が湧いて出るやうな気配を、幾度となく感じはぢめる時刻になつてゐた。――そのうちに、女中も踊りから帰つて、賑やかな足取りを金比羅山の山つづきのやうに土間の中へ躍り込ませて来たが、すると、直ぐそのうしろからのこのこ[#「のこのこ」に傍点]と頸を突き入れた小男を見て、凡太は愕然とした。それは疑ひもなくあの女衒で。――女衒は上框《あがりかまち》に腰を下して片足を膝に組みながら、鋭く凡太に一瞥を呉れたが、すぐに目を背《そ》らしてそ知らぬ顔をつくり、二階へ上つた女中に向いて「もう上つてもよいのか」と、ひどく冷い横柄な言葉を投げた。それらの全ての物腰には、凡太にとつてとうてい[#「とうてい」に傍点]なづむことの出来ない冷酷な狡智を漂わしてゐたので、彼はむらむらと憎悪を感じて女衒の顔をうんと睨みつけたが、女衒は平然としてとんとんとんと二階へ上つてしまつた。「やいやい待て。そして戸外《おもて》へ出ろ。喧嘩をしてやるから――」と、凡太は憤然叫び出したい勃勃たる好戦意識を燃したが、やうやくそれを噛み殺して、一とまづ考へ直した。しからば女中を張つて鞘当をしてやらうかと、無性に癪にさわり出してつまらぬ空想をめぐらしはぢめたが、勿論張りがひのある女ではないから、一晩中女衒と交代に女を抱くとしたならば、蓋し一代の恥辱であると痛感して、憤然居酒屋を立ち去ることに決心した。老婆と女中は驚いて、「旦那が先客でありますぞい、おとまりなさいまし」とすすめたが、決心止みがたいこと磐石の及ばざる面影を見出したので、「又だうぞ」と言ひながら奥から提灯を持ち出してきて無理に凡太に持たせた。家並の深く睡りついた街道にさて零れ落ちて一歩踏みしめてみるに、意外に泥酔が劇しくて殆んど前進にさへ困難を感じる程だつたので、手にした提灯のうるささに到つては救ひを絶叫してわつと泣き出したいばかりだつた。やり切れなくなつて振り向いてみると、幸ひ老婆はまだ戸口に佇んでこちらを見てゐたから、凡太はほつとして提灯を道の中央へ置き棄てたまま、一目散に逃走を開始した。睡つた街道の路幅一杯を舞台にして鍵々に縫ひ転がりながら、時々立ち止つては一息入れて遂ひに黒谷村の西端れまで来かかると、死んだ四囲の中に、不思議とまだ大勢の人達が路の中央に群れてゐて、それは隣村から踊りに来た若者たちがトラックに満載されて引き上げるところであつた。凡太は狂喜して駈け寄り、「僕も乗せて呉れたまへ」と提議したが、鉢巻姿の若衆は「お主は酔つておいでだから、それはなりませんぜの」と押し止めておいて、臭いガソリンの香を落したまま闇にすつぽり消えてしまつた。凡太は暫く呆然として、消え失せた自動車よりも、突然目の前に転落した闇と孤独にあきれ果てたが、気を取り直し、低く遠く落ちてゆく自動車の響きをも振り棄てて、金比羅大明神の参道をえいえいと登りはぢめた。嶮しい杉並木の坂も中頃で、凡太はつひに足を滑らしてけたたましく数間ばかり転落したが、もう起き上る気持には微塵もならなかつたので、しんしんとして細くかぼそく一条の絹糸程に縮んでゆく肉体を味はひながら、皮膚に伝ふ不思議に静寂な地底の音に耳を傾けてゐると、山の上から人の近づく気配がした。凡太は頸をもたげてそれを待ち構えてゐたが、それはしかし人間ではなく、叢《くさむら》の中を何か動く昆虫の類ひであらう、やがて高く頭上に当つて、杉の葉の鈍く揺れる澱んだ風音がした。彼はもつくり起き上つた、そして遂ひに辛酸を重ねて金比羅大明神の境内へ辿りつくと、果せるかな、それも已にひつそりとした闇の一部に還元してゐて見えるものも聴えるものも無かつたが、流石に地肌に劇しい荒れが感ぜられて、ことに円舞の足跡が鮮やかな輪型に描き残されたまましきり[#「しきり」に傍点]に其処にはたはた[#「はたはた」に傍点]揺らめいてゐるやうな、何かなつかしい匂ひが鼻にまつわつた。凡太は暫らく冥目して、素朴な社殿にいくつかの拍手《かしわで》を打ちならしたが、忽然と身を躍らすと目には見えない輪型の中へ跳び込んで、出鱈目千万な踊りを手を振り足を跳ね、泳ぐが如くに活躍して、幾度か身体を地肌へ叩きつけた。凡太はううんううんと痛快な苦悶の声を闇に高く張りあげながら、その場一面に一時間近くのたうち廻つてゐたが、やうやくいささか我に帰つて、再び険阻な坂道を転落しながら橄欖寺の離れへ安着することが出来た。帰着してみると、当然暗闇であるべき筈の離れには一面にありありと燈りの白さが映えてゐて、流石に凡太の泥酔した神経にもこれはおかしいと思はれたが、しかし見廻すにただ白々と其処に広さがあるばかり、人影はたしかに無い、いや、在つた、机の上に豪然と安坐して、一房のバナナが部屋一杯の蕭条とした明るさを睥睨《へいげい》してゐた。言ふまでもなく由良の仕業に相違あるまい、凡太は堅く腕を組んで、暫くぢつとバナナの不敵な面魂を睨んでゐたが、腕をほぐすとゐざり寄つて、またたくうちに一つ残さず平らげてしまつた。
 翌日龍然は車に送られて帰つて来た。日の落ちるまで顔を合はす機会は無かつたが、一風呂浴びて夕膳の卓に向き合ふと、ポツポツ語り出した龍然の話は、山奥に目新しいトピックであつた。龍然の招かれた先の豪家では、彼のかなり親密な友達であつた其処の次男は、急死とは言ひ乍ら、病死ではなくて、実は催眠薬による自殺であつた。県内でも屈指の豪農であつたから、新聞社などはいち早く口止がきいてゐて、龍然に与へられた多額な布施の如きにも、それに対する心持が含まれてゐた。その男は多少は学問もした人で、数年間|欧羅巴《ヨーロッパ》へ遊学して来たりなぞした経歴を持つてゐたが、日頃無為の境遇に倦怠して激しい虚無感を懐いてゐた。「自分のやうな無為の存在は結局一匹の守宮《やもり》ほどもこの世界とは関係を持たないらしい、広々とした建物の中にぢつと坐つてゐると、其処に人間が居るのだか居ないのだか、まるきしその気配さへ分らないし、たとへ其処に居るとは分つても、人々はこの建物に当然の染《しみ》ほどにしか考へない、守宮《やもり》を発見した時のやうな賑やかな騒しさでは誰も自分の存在を問題にすることがない。やがて自分は死ぬであらうが、自分の死滅したのちもこの古い厳めしい建物はなほ厳然と存在してゐて、人々は尚その中に住み乍ら、むかしこの建物の中に自分といふ存在が染《しみ》のやうに生きてゐたこと、今は已に消滅して見当らぬことなどを考へる者もなく、第一その話を思ひ出してさへ、かつて自分が存在したゞらう確証を認識するにさへ困難して苦笑するであらう。いはば自分は死の中に生き続けてゐるやうなもので、結局生命にひけめ[#「ひけめ」に傍点]を感じながら、生きてゐる限りは存在に敗北しつづけてゐるやうなものだ……」と、その男は結局これと同じ内容のことを種々な様式によつて常日頃龍然に述懐してゐたが、時々は興奮して、ひと思ひに左翼へ走つて自分の生命力を爆砕したいなぞと猛り立つたりした、そんな淋しい男だつたさうである。その男は、ほかに親しい友達が無かつたのであらう、死に当つて龍然にも遺書を残してゐた。そこには、長い間の友誼を深謝す、と、ただそれだけの意味のことが数行にわたつて簡単に述べられてあるだけのことであつたが、その遺書は龍然の手に渡る以前に、すでに家族の手によつて開封されてゐた。勿論それだけのことならば、龍然のことであるから立腹する筈はなかつたであらう、不幸にして、この一家が死者に対する待遇は、恰も唾棄すべき不孝者を遇するが如き不潔な冷酷さを漂はしてゐたために、無論それは体面を重んずる豪家として詮方ない次第でもあらうけれど、龍然は友人であるだけ甚だ気に入らなかつた。彼は開封された遺書に対して一向に礼儀を心得ぬ卑劣な言訳をきくと、全く憤慨して、通夜の席上で大いに啖呵を切つてきたさうであつた。
「――実際大きな建物といふ奴は不思議な迫力を持つものでね。僕なんぞもこのガランとした寺にぢつと坐つてゐると、その男と同じやうな漠然とした不安を、やはりしみじみ思ひ当るこ
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