村の、人気ない白い街道を、龍然と二人肩を並べて一言も物を言はずに通過してしまつた。谷間からどす黒い靄が湧きあげて、近い山さへまるで視界には映らない、そして、蜩の音が遠い森から朝の澱みを震はして泌みる頃、丁度朝の目醒めを迎へたであらう黒谷村は、振り返つても、もはや下には見えなかつた。由良は朝の一番列車に間に合はせて、自動車で停車場へ来る筈になつてゐた。
「君、東京へ帰つたら、忘れずに手紙を呉れたまへ」
 龍然はだしぬけにそんなことを言つて、まだ停車場へ七八里もあるのに、凡太に握手を求めた、「又来年もぜひ来てくれたまへ」と附け加へながら暫く手を離さなかつたりして。そして長い中絶の後に、もう一里も歩いてから、又さつきの話を思ひ出して、「もし来年も達者でゐたら……あははは――」と笑つたりした。さうかと思ふと、凡太の言葉にはまるで邪慳に耳もくれず、ただすたすたと歩いてゐた。
「どうだい。君にあの女を進呈しやうかね」
 龍然は又、いきなりそんなことも言ひ出した。
「尤もあんな女ではね。しかし、女郎や淫売よりはたしかに清潔だから、そのつもりで玩具にする気なら、いつでも自由に使用したまへ。どうせ女衒の手へ渡れば、あいつは何をやり出すのか知れたものではないのだから」
 そして凡太が困惑して、返事も出来ずにゐるうちに、彼は煙草に火をつけて、屈託もなくパクパクと煙を浮かせながら歩いてゐた。来る路に、龍然が残骸をねせたあの曲路《かあぶ》でも、二人は休まずに通りすぎた。もう明るい太陽が、それでも尚朝の潤ひを帯びて、張りつめるやう山一杯にかんかんと照り、二人を汗にぐつしより濡らした。停車場へ着いて暫くすると乗合自動車も後から来て、由良は大きな行李を抱えながら待合所へ崩れ込んだ。その時の疲労で喉が塞がるもののやうに粧ほひながら、わざとはあはあ[#「はあはあ」に傍点]と大息をして、実は空虚な白い気持で喋る気にもならぬのを、笑ひ顔で胡魔化してゐたが、笑ひ顔もひとりでに収まると、放心した顔を窓の外へぢつと見やつて、坐らうとさへしなかつた。三人は劇しく退屈して暗い顔を互に背《そむ》け合つてゐたが、誰が言ひだすともなくただ時々、夜の幾時に上野へ着く筈だね、もう東京も寝る頃であらうね、なぞといふ空虚な言葉を交し合つたりした。
 汽車がついた。汽車に乗ると、由良はもう劇しく泣きはぢめてゐた。
「達者でありたまへ」
 龍然は二人のどちらに言ふともつかず、そんなことを一言二言言ひすて、短い停車時間、ぼんやり窓際に立つたまま明るい空を見つめてゐた。
 汽車は動きはぢめた。さようなら。そして由良は泣きながら堅く窓にかぢりついて、激しく手巾《ハンカチ》をふつてゐたが、凡太も亦、彼はデッキのステップに身を出して龍然に目礼を送りながら、目に光るものの溢れ出るのを、どうすることも出来なかつた。もはや列車はするすると、屋根もない短いプラットフオムを走り出やうとしてゐた、人気ないプラットフオムにただ一人超然として、全ての感情から独立した人のやうに開いた両股をがつしり踏みしめて汽車を見送つてゐた龍然は、已に明るい太陽の下に一つ取り残されて小さく凋んでゆくやうに見られたが、突然みにくく顔を歪めたやうに想像されると、小腰をかがめ、両手の掌《ひら》にがつしりと顔を覆ひ、恐らくは劇しい叫喚をあげながら、倒れるやうに泣き伏した姿が見えた――



底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
   1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 第三号」岩波書店
   1931(昭和6)年7月3日発行
初出:「青い馬 第三号」岩波書店
   1931(昭和6)年7月3日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
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