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二人が黒谷村の峠まで辿りついたとき、もう黄昏も深かつた。熊笹の中から頸だけを延して顧れば、今来た路は幾重もの山波となつて、濃い紫にとつぷりと溶けてゆくのが見えた。山に遠く蜩《かなかな》の沈む音をききながら峠を降ると、路は今迄とはまるで別な平凡な風景に変つてきた。山といふ山はみな段々の水田に切りひらかれて、その山嶺まで稲の穂が、昼ならば青々と見えるであらう波を蕭条と戦《そよ》がせてゐた。時々|山毛欅《ぶな》の杜が行く手を脅かすくらいなもので、あの清冽な谷川も、ここではすぐ目の下に、あたりまへの川の低さになつてしまつた。黒谷村字黒谷は、黒谷川に沿ふて一列に並んだ、戸数二百戸に満たない村落であつた。丁度夜がとつぷり落ち切つた頃、二人は村端れの居酒屋を潜つて、意外に安価な地酒を掬《く》んだ。二階の窓を開け放すと裏手にはすぐ谷川で、たしかに深い山らしい涼しさが、むしろ膚に寒寒と夜気を運んできた。遠くから又遠い奥へ鳴り続いてゐる谷川のせせらぎを越して、いきなり空へ攀《よ》ぢてゐる山山の逞ましい沈黙が、頭上一杯に圧しつけて酒と一緒に深く滲みてくるのだつた。龍然は不思議に酒に強く、凡太に比較して
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