た、そして……うう、「如是我聞、如是我聞――」、算を乱して逃亡する自我の滅裂を感じながら、居ずまひを立て直した凡太は、勇気をかりおこして経文を呟きはぢめたのであつた。それも亦束の間のこと、ぶつぶつ煮える呟きも次第に低く引き去れば、山上の金比羅大明神の前栽に鳴りひびく盆踊の樽太鼓のみ、静かに脊髄に泌みついてきた。そのとき由良ももつくりと起きた、暫らく手を床《ゆか》について、重たげな頭をぢつと下に向けながら、様々な音響を耳にこまかく選りわけてゐるやうな形であつた。
「踊りの太鼓がきこえますわね……」
「さう、トントントトトトトントン……と、はあ、きこえる」
「行つてみませうか」
由良はふらふら立ち上つて、燈明の方をぢつと見てゐたが、がつかりして笑ひ出した。
「ほら、燈明をぢつと凝視めてごらんなさい。くすぐつたいやうに、ちろちろ気どつて揺れはぢめる……気のせいばかりぢや、ありませんわね。厭な奴。ああああ――」
歩き出してみると、凡太の杞憂したほど由良の歩行は乱れてゐなかつた。風は死んでゐたが、夜気そのものが冷え冷えと膚に迫つて、その度に冥想すべき何等かの思考力を植え落してゆくもののやうな
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