言へば、それは断じてさうでない、ただ、大いに激昂して叫喚乱舞に耽溺してゐる最中に、興奮してゐることそれに就て波のやうな退屈を感得し、落胆《がっかり》してしまふのであつた。
 由良の肢体はだらしなく床板の上に寝そべつてゐたが、凡太の丹誠によるほのかな燈明のおかげで、幸ひそれは人魚のやうに可憐に縹渺として童話風な恋情をそそつた。凡太は腕を拱いて空間を凝視してゐたが、やがて波のじつとりと落ちた広い広い海原に、倉皇と海面《みのも》を走る遥かな落日を、その皮膚にすぐ近くひたひたと感じはぢめてゐた。それは遥かな海であつた、已にとつぷりと暮れた東南の紫は次第に深くくろずみ渡り、西方の水平線にはわづかに残る薄明がひろい寂寥を放つてゐたが、そのとき、深くうなだれた一人の男が永遠に帰らんとするものの如く、足を速めて西へ西へ海原を歩く像《すがた》を見出してゐた。鋭い影は一線に海を流れてすでに深い背《うしろ》の闇に溶け去つてゐるが、男はそのただ一つなる決意のみを心とする人の如く、ひたすらに帰らんとして疲れた足をいそがせてゐる、しばらくして、ものに怯えた人の如く、男はふと頸をめぐらして背《うしろ》の闇をぬすみみ
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