はずみか、大変まぢめに端座して「僕は気狂ひではありません」とごもごも答へてからはぢめて我に返つたが、女はその声にはまるで構はず、左手をまずべつとりと床板につき下して重心をそこへ移しながら、崩れるやうに腰を落して両足を投げ出した。
「今晩は。はぢめてお目にかかりましたね」
「今晩は。はぢめてお目にかかりました」
「龍然は留守でせう――?」
「今夜は帰るまいと思ひます。御存知ですか?」
「出掛けるとき、さう教へに来ましたから――」
「ああ成程――」と凡太は当然なことに暫く慚愧《ざんき》して耳を伏せたが、つらつら思ひめぐらすにこれは当然慚愧するには当らない根拠があると気がついた。龍然は今朝早く使ひを受けると、特別に支度を必要としない男のことだから、已に魂は遠く無しといふ骸骨にポクポクと跫音をひびかせて、すぐさま山門から空間の方へ消失してしまつたが、あの姿で女のところへ留守を知らせに立ち廻るほど繊細な精神を含蓄してゐやうとは、これは実際奇蹟であり不合理であり驚愕であり滑稽であり、――そして、考へてみれば胸にこたへてくるものがあつた。凡太は長嘆息を噛み殺して白い顔をした。
「龍然は妾《わたし》を
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