犯された瞬間に、彼は身体の隅々に強烈な涸渇を感じながら、もしその時この雑踏の中で一つぺんに気絶したなら、何かふうわりとした夢幻的な方法で、次の瞬間にはその身体が山へ運ばれてゐるのではあるまいかと思はれたりした。そんな時だ、手の置き場所が分らなくなつて、手がそれ自身意志を持つ動物であるかのやうに、肩や腰や背や空や、あてどもなく走り出し騒ぎはぢめるのは。――そんな一日のこと、彼は雑踏のさ中で、ふと蜂谷龍然を思ひ出したのだ。それは別に深い意味があるわけではない。彼は旅費が不足してゐた、そして龍然は山奥に棲んでゐた。
龍然は、学生時代にも、凡太とそれ程親密な間柄ではなかつた。ただ、二人共ほかに親しい級友を持たなかつたので、かなり親しい友達のつもりで、時々往復し合つてゐた。結局卒業してしまふまで、「あります」「あなた」といふやうな敬語を用ひ、相手がうるさくて堪へられない時や酒のうへなぞでは、別段怪しみもせずぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]な言葉を、その時だけは極めて自然に使ひ合つたりしてゐた。龍然はとりわけて才のある男でもなく、一見さう見える通り、実際もごく平凡な好人物であるやうにしか考へられ
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