ごもごもとした都会の雑踏であつた。この二つの中へ雑《まじ》るとき、彼はただ、何といふこともなく確かに雑るといふ実感がして、深く身体の溶け消えてゆく状態を意識することが出来るのであつた。日頃負ふてゐる重荷をも路傍へ落し忘れて、静かにそして百方へ撒かれてゆく軽快なリズムを、耳を澄ませば一種じんじんと冴えわたる幽かな音響に、聴き分けることも出来るのであつた。彼は元来脆弱な体質で、山に攀挙することの苦痛は並大抵なものではなかつた。しかし山を降りてからのまる一年、またうらうらと雲の浮く季節になるまでといふもの、追憶の中に浮び出る青々とした山脈の姿は、その彷彿とした映像の中に登攀してゐる彼の像が、その時は喘ぎ苦しむこともなく、ただひたひたと四方の明暗に浸透してゆく愉快な実感を認識させるのであつた。山の沈黙にゐて思ひ出す雑踏の慈愛と同様に、雑踏にゐてふと紛れ込む山脈の映像は、恰も目に見え、耳に冴え、皮膚に泌みる高い香気を持つものであつた。それは丁度、使ひ古して疲労困憊した観念が、その故郷《ふるさと》に帰滅してゆくかのやうな懐しさを持つものであつた。その劇しいのすたるぢい[#「のすたるぢい」に傍点]に
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