燈明を点してみたり、又一度坐り直して暫らくして、又立ち上つて冷い床板をぐるぐる歩き廻つたりしてゐるうちに、橄欖院呑草居士といふ位牌を一つ、もう埃にまみれてゐるものを見出したのであつた。彼はぢつと考へて、又一度坐り直したが、いつの間にやら夢の心持で、経文を唱へはぢめてゐた。彼は坊主ではなかつたが、学生時代には印度哲学を専攻したために、二三の短い経文はおぼろげながら暗《そら》んじてゐたから。一体位牌そのものの出現が孤独を満喫してゐる凡太にとつて少なからぬ神秘であつたのに、以前彼は龍然からこの寺の先住に就て妙な話をきかされてゐた。それは一応噴飯に価する無稽な話に思はれたが、笑ふ相手もなく孤りでゐるこの時には、別に滑稽味もなく素直に先住の面影が浮んできた。それ故凡太は、噴き出すこともせずに、こんなしかつべらしい端坐を組んで誦経をやり出したのであつた。その話といふのはこうであつた。橄欖寺の先々代は学識秀でた老僧であつたが、酒と茹蛸《ゆでだこ》が好物で、本堂に賭博を開いては文字通り寺銭を稼いで一酔の資とするのが趣味であつた。町へ出る度に、茹蛸を仕入れて帰るのが楽しみであつたが、一日、まるまるとした
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