ら、うむうむと頷く声が聴えたり、日本の裏手は北|亜米利加《アメリカ》ではないだらう等と、愚にもつかない話声も洩れてきたりするが、流石にまれには女の泣く音も聴えたりしてそれらしい情景を想像させることもあつた。激しい鳴咽が長長と消えない夜も、龍然は別に凡太の手前をつくろつて、それを隠しだてる気配も立てはしなかつた。彼の方でもことさらに聴き耳を立てるわけではなかつたから、つぢつまの合はない物音が時たまぽつんと零れてくる程にしか過ぎない、恋といふ感じよりは、どう思ひめぐらしてみても尋常の人の世の営みを越えた刺激は全く受けることがなかつた。ただ女が、農婦よりはいくらか程度の高い教養を持つ人であることを、薄々感じることが出来てゐた。それだけの話で、かなり長い後まで、女の名前は勿論、女の顔さへ見知ることなく過してゐた。さういへば、一度だけその後姿を見かけた黄昏があつた。それは二人が打ち連れて間道を抜けながら隣字《となりあざ》の温泉――といつても一軒の宿屋が一つの湯槽を抱えてゐるにすぎないのであるが――へ浸りに行く途中のこと、丁度本道と間道との分かれ路にあたる鬱蒼とした杉並木で、本道を歩いて村へ帰る束
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