りであつた。そして凡太は、さういふ色情の世界に居つくと、途方もない気楽さを感じ初めて来たのだつた。それは単に村の風俗に就てばかりではない、この平凡な盆地の山も木も谷も、それら全体にわたつて、じつとりと心に響く一つの風韻がわいてきたのだつた。それは凡太の好色に汚名をきせるのも一理窟ではあるが、いつたい凡太は、この旅の出発に当つて、期するところ余りにも少なかつたのがこの際大きな儲け物であつたのだ。それには橄欖寺の住み心持も、黒谷村の風韻から別にして計算してはならなかつた。
 黒谷村逗留の第一夜、龍然から与へられた橄欖寺の離れにおさまつてみると、その瞬間から已に借物といふ感じはせずに、いつか昔棲み古したことのある自分の家といふ気楽さだけが意味もなく感ぜられてならなかつた。寺には龍然のほかに使用人も無かつたし、その龍然とも必要のない限りは顔を合はさずにも暮すことが出来たし、顔を合したところで、龍然の方では凡太を別に客らしい意識では待遇もしなかつたので、食事なぞも好きな時に台所へ探しに行ければそれでよかつた。時々むしろ龍然の方で、彼が遊びに訪れたやうな顔付で凡太の離れを訪問するが、実際それは拵へ
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