誘ふ黒谷村一般の招辞であるといふのだつた。さう言はれてみれば、ある日のこと、尾根伝ひに国境へ通ふ風景の良い路で、蕨《わらび》を乾してゐる娘から明らかに秋波を送られた経験もあつた。その後凡太は、色々の場所に色々な様式で、之と同じ事情に幾度となく遭遇した。しかしそれは、猥褻と呼ぶには当らない、むしろ透明とか悠久とか、そんな漠然とした親密な名辞で呼ぶにふさわしい程凡太の胆に奥深く触れて来るものがあつた。其は単に隠されてゐるものを明るみへ曝したといふばかりで、むしろ徹底した気楽さが、たとへば振り仰ぐ空の明るさのやうに、坦々として其処に流れ、展開してゐるにすぎない。一年の半《なかば》は雪に鎖され、残りの半《なかば》さへ太陽を見ることはさして屡《しばしば》でないこの村落では、気候のしみ[#「しみ」に傍点]が人間の感情にもはつきり滲み出て来るのだつた。夏も亦|一瞬《ひととき》である。あの空も、あの太陽も、又あのうらうらとした草原も樹も。……さういふ果敢無《はかな》さが慌ただしい色情の裏側に、むしろうら悲しくやるせない刻印を押してゐるやうに思はれて、物の哀れとも言ふべきものが、侘しく胸に泌みて来るばか
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