其処にだけ一塊の喚声が群れてゐて、それをすつぽりと包んだ、一面の暗闇はただしんしんとするばかり、その喚声のすぐ周囲でさへ、耳を澄ませども見えるもの聴えるものは無いからだつた。やがて暫くして、深い谷音ばかりはつきり耳についてきた。――これは、凡太が黒谷村へ足を踏み入れた第一日の印象だつた。居ついてみると、一見平凡な黒谷村も、変に味はひのある村だつた。
黒谷村は猥褻な村であつた。気楽な程のんびりとした色情が、――さう思つて見れば、蒼空にも森林にも草原にも、だらしなく思はれる程間の抜けた明るさを漂はしてゐた。凡太は一日、山の段々畑をいくつか越えて何気なく足を速めて逍遥してゐると、穂の間から上半身をあらわした若い農婦がだしぬけに顔をあげて、健康な(HALLOO!)を彼の背中へ叫びかけた。凡太は丁度山嶺に片足を踏みかけてゐたので、ふりかへると遠くはるかな風景が、その中へ農婦の姿をも点描して深々と目にしみてきた。彼は壮快を感じて元気一杯な(HALLOO!)を返しながら山の裏側へ消え込んでしまつたが、考へてみると一つ足りない気持があつた。その夜、その話を龍然にしてみると、果せるかな、これは夜這ひへ
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