二人が黒谷村の峠まで辿りついたとき、もう黄昏も深かつた。熊笹の中から頸だけを延して顧れば、今来た路は幾重もの山波となつて、濃い紫にとつぷりと溶けてゆくのが見えた。山に遠く蜩《かなかな》の沈む音をききながら峠を降ると、路は今迄とはまるで別な平凡な風景に変つてきた。山といふ山はみな段々の水田に切りひらかれて、その山嶺まで稲の穂が、昼ならば青々と見えるであらう波を蕭条と戦《そよ》がせてゐた。時々|山毛欅《ぶな》の杜が行く手を脅かすくらいなもので、あの清冽な谷川も、ここではすぐ目の下に、あたりまへの川の低さになつてしまつた。黒谷村字黒谷は、黒谷川に沿ふて一列に並んだ、戸数二百戸に満たない村落であつた。丁度夜がとつぷり落ち切つた頃、二人は村端れの居酒屋を潜つて、意外に安価な地酒を掬《く》んだ。二階の窓を開け放すと裏手にはすぐ谷川で、たしかに深い山らしい涼しさが、むしろ膚に寒寒と夜気を運んできた。遠くから又遠い奥へ鳴り続いてゐる谷川のせせらぎを越して、いきなり空へ攀《よ》ぢてゐる山山の逞ましい沈黙が、頭上一杯に圧しつけて酒と一緒に深く滲みてくるのだつた。龍然は不思議に酒に強く、凡太に比較して殆んど酔を表はさなかつたが、時たま思ひ出したやうに、ひどく器用に居酒屋の女中を揶揄《からか》つたりした。それがその瞬間には板についてゐて、驚くと、度胆を抜かれた瞬間には、もうもとの妙に取り澄してゐる彼の風貌が、それはそれなりに龍然そのものであつた。凡太はむやみに面白くなつて、慎みを忘れて泥酔してしまつた。居酒屋の女中は酔つた凡太をとらへて、しきりに婬をすすめるのであつた。挨拶に出て来た年老いた内儀もそれへ雑つて、
「和尚さんはいい人がおありですからおすすめはしませんが、客人はぜひ今夜はこちらへお宿りなさい」
 なぞと、あたりまへの挨拶のやうに述べるのであつた。
「来るさうさうから余り立派な記念でもないから、今夜だけは寺でねる方がいいさ」
 龍然は洒脱な物腰で、彼のためにそんな断りを述べた。女達のさわがしい二の句を一つ残さず断ち切つて、巧みに話題をそらしてしまふ程それは苦労人らしい物腰で、女達は「和尚さんの意地わる……」なぞと言ひながら、龍然の口ぶりを面白がつて笑ひ崩れてしまつた。二人は賑やかな見送りを受けて居酒屋を立ち去つたのだ。それは実際賑やかな見送りと言ふべきであつた。なぜならば、其処にだけ一塊の喚声が群れてゐて、それをすつぽりと包んだ、一面の暗闇はただしんしんとするばかり、その喚声のすぐ周囲でさへ、耳を澄ませども見えるもの聴えるものは無いからだつた。やがて暫くして、深い谷音ばかりはつきり耳についてきた。――これは、凡太が黒谷村へ足を踏み入れた第一日の印象だつた。居ついてみると、一見平凡な黒谷村も、変に味はひのある村だつた。
 黒谷村は猥褻な村であつた。気楽な程のんびりとした色情が、――さう思つて見れば、蒼空にも森林にも草原にも、だらしなく思はれる程間の抜けた明るさを漂はしてゐた。凡太は一日、山の段々畑をいくつか越えて何気なく足を速めて逍遥してゐると、穂の間から上半身をあらわした若い農婦がだしぬけに顔をあげて、健康な(HALLOO!)を彼の背中へ叫びかけた。凡太は丁度山嶺に片足を踏みかけてゐたので、ふりかへると遠くはるかな風景が、その中へ農婦の姿をも点描して深々と目にしみてきた。彼は壮快を感じて元気一杯な(HALLOO!)を返しながら山の裏側へ消え込んでしまつたが、考へてみると一つ足りない気持があつた。その夜、その話を龍然にしてみると、果せるかな、これは夜這ひへ誘ふ黒谷村一般の招辞であるといふのだつた。さう言はれてみれば、ある日のこと、尾根伝ひに国境へ通ふ風景の良い路で、蕨《わらび》を乾してゐる娘から明らかに秋波を送られた経験もあつた。その後凡太は、色々の場所に色々な様式で、之と同じ事情に幾度となく遭遇した。しかしそれは、猥褻と呼ぶには当らない、むしろ透明とか悠久とか、そんな漠然とした親密な名辞で呼ぶにふさわしい程凡太の胆に奥深く触れて来るものがあつた。其は単に隠されてゐるものを明るみへ曝したといふばかりで、むしろ徹底した気楽さが、たとへば振り仰ぐ空の明るさのやうに、坦々として其処に流れ、展開してゐるにすぎない。一年の半《なかば》は雪に鎖され、残りの半《なかば》さへ太陽を見ることはさして屡《しばしば》でないこの村落では、気候のしみ[#「しみ」に傍点]が人間の感情にもはつきり滲み出て来るのだつた。夏も亦|一瞬《ひととき》である。あの空も、あの太陽も、又あのうらうらとした草原も樹も。……さういふ果敢無《はかな》さが慌ただしい色情の裏側に、むしろうら悲しくやるせない刻印を押してゐるやうに思はれて、物の哀れとも言ふべきものが、侘しく胸に泌みて来るばか
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