りであつた。そして凡太は、さういふ色情の世界に居つくと、途方もない気楽さを感じ初めて来たのだつた。それは単に村の風俗に就てばかりではない、この平凡な盆地の山も木も谷も、それら全体にわたつて、じつとりと心に響く一つの風韻がわいてきたのだつた。それは凡太の好色に汚名をきせるのも一理窟ではあるが、いつたい凡太は、この旅の出発に当つて、期するところ余りにも少なかつたのがこの際大きな儲け物であつたのだ。それには橄欖寺の住み心持も、黒谷村の風韻から別にして計算してはならなかつた。
黒谷村逗留の第一夜、龍然から与へられた橄欖寺の離れにおさまつてみると、その瞬間から已に借物といふ感じはせずに、いつか昔棲み古したことのある自分の家といふ気楽さだけが意味もなく感ぜられてならなかつた。寺には龍然のほかに使用人も無かつたし、その龍然とも必要のない限りは顔を合はさずにも暮すことが出来たし、顔を合したところで、龍然の方では凡太を別に客らしい意識では待遇もしなかつたので、食事なぞも好きな時に台所へ探しに行ければそれでよかつた。時々むしろ龍然の方で、彼が遊びに訪れたやうな顔付で凡太の離れを訪問するが、実際それは拵へ物でも謙譲でも、まして卑屈でもなく、第一凡太にしてからがその時は龍然の方が遠路の客人であるとしか考へられないのであつた。二人は寝転んだまま何の話も交へないで、ただ漫然と二時間三時間を過すこともあつたが、出発する前に予想したやうな退屈や気づまりは全く感ずることも無かつたし、そのうちに二人とも睡り込んで、やがて一方が目を醒して散歩に出てしまふと、間もなく一方も目を醒して、がらんとした寺の空虚を噛みしめながら、初めから自分一人で其処に寝てゐたやうに考へながら自分の営みに立ち去つてしまふ。この気楽さから身体を運び出して漠然と黒谷村を彷徨すれば、村がいかにものんびりと胸に滲みるのは尤もな話であつたが、それにも増して、本来橄欖寺そのものの内側にも淫靡な靄が漂ふてゐたから……。それは毎晩のことだつた、気のせいか、多少は音を憚かる跫音《あしおと》が、しかしかつかつと甃《いしだたみ》を鳴らしながら、山門を潜つて龍然の書院へ消え去るが、それは夜毎にここへ通ふ龍然の情婦であつた。もとより龍然は、わざと情婦を凡太に紹介することもしなかつたけれど、さりとて隠し立てするわけでは無論ない、静かすぎる山奥の夜であるから、うむうむと頷く声が聴えたり、日本の裏手は北|亜米利加《アメリカ》ではないだらう等と、愚にもつかない話声も洩れてきたりするが、流石にまれには女の泣く音も聴えたりしてそれらしい情景を想像させることもあつた。激しい鳴咽が長長と消えない夜も、龍然は別に凡太の手前をつくろつて、それを隠しだてる気配も立てはしなかつた。彼の方でもことさらに聴き耳を立てるわけではなかつたから、つぢつまの合はない物音が時たまぽつんと零れてくる程にしか過ぎない、恋といふ感じよりは、どう思ひめぐらしてみても尋常の人の世の営みを越えた刺激は全く受けることがなかつた。ただ女が、農婦よりはいくらか程度の高い教養を持つ人であることを、薄々感じることが出来てゐた。それだけの話で、かなり長い後まで、女の名前は勿論、女の顔さへ見知ることなく過してゐた。さういへば、一度だけその後姿を見かけた黄昏があつた。それは二人が打ち連れて間道を抜けながら隣字《となりあざ》の温泉――といつても一軒の宿屋が一つの湯槽を抱えてゐるにすぎないのであるが――へ浸りに行く途中のこと、丁度本道と間道との分かれ路にあたる鬱蒼とした杉並木で、本道を歩いて村へ帰る束髪にした女人の大柄な形をみとめたのであつた。三本路のことであるから、別に擦れ違つたのでもなく特別な注意もしてゐなかつたので、凡太はその顔を見なかつたが、暫くして、あれが俺の女で苫屋由良といふ名前だと龍然はふと言ひすてた。実はその時、ほんのわづかではあつたが、まだそれを口に出さない龍然の沈黙の数秒の間に、已にそれを感じさせる何がなしの感傷があつたので、凡太は疾くそれを悟ることができて、どんよりと澱んだ黄昏のなかへ波紋を画きながら拡がつてゆく太い憂鬱を味はつてゐた。そして龍然が口を切るまでの短い沈黙を、堪えがたい長さに圧しつけられてゐたので、その言葉をきいた時にははや振り返る気持にもならなかつた。しかしとにかく振り向いて、女の後姿よりはむしろその前方に暮れかかつてゐる已に漠然とした山山の紫を、ぢつと目に入れて頸を戻したのであつた。それでも気のついた限りでいへば、女は浴衣をきてゐたが、その着こなしが確かに都会生活を経てきたにちがひない面影をあらわしてゐた。ただそれだけの観察であつた。二人は又こつこつと狭い間道を歩いて、その時もはや龍然の物腰にはいつもの残骸といふ感じしか見当てることは出来なか
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