》れた十人ばかりの人々と屋根もないプラットフオムに取り残されてみると、思ひがけない龍然の姿が出迎へに出てゐた。彼は草鞋を履き、裃《かみしも》のやうな古めかしい背広服に顔色の悪い丸顔を載せて、零れた人々を一人づつ甜《な》めるやうな格巧をしながら、よろよろと彼を探し廻つてゐた。やがて龍然は彼を認めて、五六間離れたところから片手にぶら下げた何か細長い物をクルクル振り廻しながら、ぼつぼつと歩み寄つてきて「いやあ――」と言つた。此の並はなれてあけ放しな至極あたりまへな物腰が、凡太を全く喫驚《びっくり》させたのであつた。そしてその時から、彼はもはや予想して来た重さとはまるで違つた何とはなしに親密な気持へ、自然に転化させられてしまつてゐた。龍然が片手にクルクル振り廻してゐたものは、も一つの草鞋であつた。彼はそれを凡太に履かせて、二人は其処から十里ばかりの山路を歩くのである。
人の気配のさらに無い山路に尨大な孤独を噛みしめながら、谷風に送られて縹渺《ひょうびょう》と喘ぐことを、凡太はむしろ好んでゐた。それは苦しいには違ひない、疲労困憊の挙句、えねるぎい[#「えねるぎい」に傍点]といふものを硬質のものを胎内に感じ当てることが出来なくて、汗ばかりべとべとと、まるで身体全体が滴れてゆく粘液自体であるやうに思はれ、仰ぐと、たまらない明るさばかりがカンカン張り詰めてゐて、眩暈《めまい》がくるくる舞ひ落ちながら、逞しい空虚と太々とした山の心が一度にぐつと暗闇の幕を開く。山一面に蝉の音がぢいーと冴えて、世界中がただそれだけであるやうに感じられてしまふ。流れ込む汗を喰べながら、一種の泥酔状態に落ちて、其処へらの岩陰にへたへたと崩れたならもうそれなりにどうなつても構はない、自分の身体を人の物程も責任を持つ気がなくて、やりきれない自暴自棄で明るい空を仰ぐと、自分といふ一個の存在がみぢめで懐しくて堪らないのだ。
山路へかかつてもの[#「もの」に傍点]の一里と行かぬ頃から、凡太は已にそんな泥酔状態に落ちてゐたが、不健康な色をした龍然は、しかし馴れてゐると見えて、初めからたどたどしい足取りのまま乱れを見せないのであつた。連《つれ》のあることをもはや忘れつくしてゐるもののやうに、沈黙を載せてぽくぽく辿つてゐた。実際、あれだけの長い距離《みちのり》の間に、二人の人間がお互の存在に意識を持ち合つたのは、谷川へ降りた時あの時一度だけではなかつたのか。思へばあれは、長い距離《みちのり》の丁度中頃に当る辺りであつたに違ひない、何か目印でもあるのであらう、龍然は突然谷川の曲点《カアブ》を指し示してあそこで休もうではないかと言ひ出した。見下せば、水音はきこえるが、水の色さへ定かには目に映らない深い深い谷であつた。急峻な藪を下る時ひとたび足を滑らしたならば危険極まるものであるし、降りるには降りても、又登る時の苦痛を考へたなら、なまなかの休息には楽しみを予想する気持にもならないのであつた。しかし龍然は言葉を捨てると何の躊躇もなくはや藪の中へ足を降ろしはぢめたので、同じ動作を凡太も亦行はざるを得なかつた。しかし降りはぢめてみると、むしろ危いのは龍然の足どりだつた。彼はしかつめらしい自信顔で凡太を庇ふやうに時々ふり仰ぎながら、そのくせ彼自身危い腰つきで、どどどうつと一二間滑り落ち、辛うじて立ち止ると自分の様子には一向無反省で、いましめの眼をけわしくぢつと凡太の足もとへふり注ぐのが一つの滑稽であつた。此の道を通る時、龍然は恐らくこの同じ場所で同じ休息をとる習慣にちがひない、降り切ると、当然の順序のやうに衣服を脱いで紅葉の枝に懸け、谷川へヂャブヂャブ潜り込んでしまつた。谷川は此の場所だけはかなり広さもあり、深さも場所によつては鳩尾《みぞおち》まではあるのだつた。龍然は腹を下に両手を拡げてブクブクとやつたり、急に背を下にしてヒラリヒラリと体をかわしながら又腹を下にしてみたり、凡そ泳ぎ以外の色々の術を試みるのであつた。谷底の木暗いしじまで握飯《むすび》を食べ終ると、龍然は凡太にもすすめておいて、自分は平たい岩塊の上へ仰向けに寝転び、やがて深い睡りに落ちてしまつた。肋骨や手足の関節が目立つて目に泌みるその不健康な裸体を見てゐると、まるで痩衰《やせおとろ》へた河鹿《かじか》が岩にしみついてゐるやうにしか思へないのであつた。魂などといふものは勿論、およそ「生きてゐる」といふ何等かの証拠を、まつたく何処にも見出すことの出来ない残骸といふ気がした。凡太は睡る気持にもならなかつたので、それから龍然が目を醒ますまでの三時間ばかりといふもの、変に淋しい自棄《やけ》な気持になつて、水へがぼがぼ潜つてみたり、ふと気がついて頭をあげると谷の枝枝に鳴りわたる風音が耳についてきたり、上の藪を這つてゆく縞蛇に出会つたりした
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