れて村を出たことがありました。お分りですか? 凡太さん……妾は今も女衒と一緒に寝てきました。あははははは……嘘嘘嘘、一緒に酒をのんできただけ……」
 由良は床板に強く支へてゐた両腕をするすると滑らして、横に倒れると一本のだらしない棒となつてねてしまつた。
「女衒は上玉だつて大悦びでしたわ。妾はそれを教へてあげに此処へ来たのです――」
「僕にですか――?」
「さう。誰にだつて教へてやりたいから、あなたにも教へてやりに」
 由良は顔を拾ふやうに持ち上げたが、又それを両腕の中へすつぽりと落して、もう拾ひあげやうとはしなかつた。かなり深く酔ひ痴れてゐるのだ。そこで凡太はぢつと腕を拱いて、――実は途方もない別なことを、一心に考へ初めたのであつた。いや、別なことを考へはぢめたと言ふよりは、何も考へない思惟の中絶へ迷ひ込んだと呼ぶ方がむしろこの際又しても正しいのであつた。凡太はこの数年来、常に現前の事実には充分に浸ることが出来なくて、全てが追憶となつてから、その時の幻を描き出してのち、はぢめて微細な情緒や、或ひは場面全体の裏面を流れてゐた漠然たる雰囲気のごときものを、面白く感じ出す不運な習慣に犯されてゐた。ありていに言へば、この男は如何なる面白い瞬間にも、それに直面してゐる限りは常に退屈しきつてゐて、今のことではない、その昔経験した一場面の雰囲気へ、何時《いつ》ともなしにぼんやりと紛れ込んでしまつてゐる。音楽をきいてゐてさへ、スポオツを見てゐてさへ、無論矢張りそれはその通りで、現在ショパンの音楽をききながら、それにすつかり退屈を感じて、いつか聴いたモツアルトの旋律を思ひ出してそれにうつとり傾聴してゐたり、一塁の走者を見てゐながら頭の中ではそれを三塁へ置いて盛んに本塁盗塁《ホオムスチイル》を企てさせて興奮してゐたり、さういふ芸当は日常茶飯のことで、それでゐてショパンの音楽を聴いてゐなかつたわけでもない証拠には、他日又その瞬間を実に楽しく彷彿と思ひ出して来るのであつた。ショパンはいい、ショパンの音楽は実に素敵だと夢を追ふやうに慌ただしく知人達に吹聴しながらショパンの演奏される日を待ちかねて音楽会場へ殺到するのだが、さて腰を下してぢつとしてゐると幕も上らぬ頃から又してものべつ幕なしにうんざりと退屈しきつて、演奏の終る時までやたらに別のことばかり考へてしまふ。興奮することを知らない男かと言へば、それは断じてさうでない、ただ、大いに激昂して叫喚乱舞に耽溺してゐる最中に、興奮してゐることそれに就て波のやうな退屈を感得し、落胆《がっかり》してしまふのであつた。
 由良の肢体はだらしなく床板の上に寝そべつてゐたが、凡太の丹誠によるほのかな燈明のおかげで、幸ひそれは人魚のやうに可憐に縹渺として童話風な恋情をそそつた。凡太は腕を拱いて空間を凝視してゐたが、やがて波のじつとりと落ちた広い広い海原に、倉皇と海面《みのも》を走る遥かな落日を、その皮膚にすぐ近くひたひたと感じはぢめてゐた。それは遥かな海であつた、已にとつぷりと暮れた東南の紫は次第に深くくろずみ渡り、西方の水平線にはわづかに残る薄明がひろい寂寥を放つてゐたが、そのとき、深くうなだれた一人の男が永遠に帰らんとするものの如く、足を速めて西へ西へ海原を歩く像《すがた》を見出してゐた。鋭い影は一線に海を流れてすでに深い背《うしろ》の闇に溶け去つてゐるが、男はそのただ一つなる決意のみを心とする人の如く、ひたすらに帰らんとして疲れた足をいそがせてゐる、しばらくして、ものに怯えた人の如く、男はふと頸をめぐらして背《うしろ》の闇をぬすみみた、そして……うう、「如是我聞、如是我聞――」、算を乱して逃亡する自我の滅裂を感じながら、居ずまひを立て直した凡太は、勇気をかりおこして経文を呟きはぢめたのであつた。それも亦束の間のこと、ぶつぶつ煮える呟きも次第に低く引き去れば、山上の金比羅大明神の前栽に鳴りひびく盆踊の樽太鼓のみ、静かに脊髄に泌みついてきた。そのとき由良ももつくりと起きた、暫らく手を床《ゆか》について、重たげな頭をぢつと下に向けながら、様々な音響を耳にこまかく選りわけてゐるやうな形であつた。
「踊りの太鼓がきこえますわね……」
「さう、トントントトトトトントン……と、はあ、きこえる」
「行つてみませうか」
 由良はふらふら立ち上つて、燈明の方をぢつと見てゐたが、がつかりして笑ひ出した。
「ほら、燈明をぢつと凝視めてごらんなさい。くすぐつたいやうに、ちろちろ気どつて揺れはぢめる……気のせいばかりぢや、ありませんわね。厭な奴。ああああ――」
 歩き出してみると、凡太の杞憂したほど由良の歩行は乱れてゐなかつた。風は死んでゐたが、夜気そのものが冷え冷えと膚に迫つて、その度に冥想すべき何等かの思考力を植え落してゆくもののやうな
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