堂の丸柱と並んで、大柄な女が一人うつすらと立ちはだかつてゐた。凡太はあまり不思議なことなので……いや、不思議とはいふもののこれは情景の説明ではない、凡太の意識内容の説明であるが、この突瑳《とっさ》の瞬間に、彼はしばらく気抜けのやうな驚愕を味得して、呆然としたままその思惟を一時に中絶してしまつた。元来、これは必ずしも定則ではないけれども、凡太は屡《しばしば》孤独に耽つてゐる折、突然人像の出現に脅やかされるとき、現前に転来した事実とはまるで別な一種不可解な無音無色の世界へ踏み迷ふことがあつた。それは出現した人間の個人の個性とは凡そ無関係なもので、第一その場合その人を多少なりとも認識したものかどうかさへ疑はしい程突瑳な瞬間の出来事であるが、なぜかぎよつとして、ばたばたばた[#「ばたばたばた」に傍点]と転落する気配を感ずるうちに、自分一人の何物かを深く鋭くぢいつと見凝めてしまふのであつた。もはやその時それは一種の夢にちがひない、突然開かれたその門を茫漠と歩いてゐるうちに、凡太は彼の一生に於て、恐らくは最も孤独な、あらゆる因果を超越してただ寂漠と迫まつてくる一つの虚無――、何か永劫に続いてゐる単調な波動を、やりきれぬ程その全身に深々と味つてしまふのであつた。暫くして彼はその状態から覚醒しはぢめるとき、まづ何事か熱心に暗中模索を試みる情緒の蠕動を感じて、やがてしんしんと澄みきつてゐる白板の中へ次第にありありと現像する外界を漸次再認するのであつたが、彼はこの夜もその同じ過程《ぷろせす》を経過して、漸次現実の静寂が耳につきはぢめてくると、其の時その静かな夜気の中にふと湧き出でて次第に波紋を拡げてゆく狂燥な笑ひ声を鋭く耳に聴いた。しかし彼は、この覚醒の瞬間に於ては、もはや絶対に物に驚くといふ心情を消失してゐる習慣であつたから、泰然として蟇《がま》のやうに蹲くまりながら、ぢつと下から由良の顔を見上げた。
「あなたもいくらか気狂ひですね。龍然もやはり気狂ひです……」
 由良のぺらぺらと流れる癇高い声を聴きながら、彼はしかしこのふくよかな肉附を持つた女が、粗雑な言葉とは全く逆に妙に古風な瓜核《うりざね》顔をしてゐること、それは古い絵草紙の人物のやうな一種間の抜けたおとなしさ[#「おとなしさ」に傍点]さへ表はしてゐること、かなり酒に酔ひ痴れてゐること等を一纏めに感じ当ててゐた。凡太はどうしたはずみか、大変まぢめに端座して「僕は気狂ひではありません」とごもごも答へてからはぢめて我に返つたが、女はその声にはまるで構はず、左手をまずべつとりと床板につき下して重心をそこへ移しながら、崩れるやうに腰を落して両足を投げ出した。
「今晩は。はぢめてお目にかかりましたね」
「今晩は。はぢめてお目にかかりました」
「龍然は留守でせう――?」
「今夜は帰るまいと思ひます。御存知ですか?」
「出掛けるとき、さう教へに来ましたから――」
「ああ成程――」と凡太は当然なことに暫く慚愧《ざんき》して耳を伏せたが、つらつら思ひめぐらすにこれは当然慚愧するには当らない根拠があると気がついた。龍然は今朝早く使ひを受けると、特別に支度を必要としない男のことだから、已に魂は遠く無しといふ骸骨にポクポクと跫音をひびかせて、すぐさま山門から空間の方へ消失してしまつたが、あの姿で女のところへ留守を知らせに立ち廻るほど繊細な精神を含蓄してゐやうとは、これは実際奇蹟であり不合理であり驚愕であり滑稽であり、――そして、考へてみれば胸にこたへてくるものがあつた。凡太は長嘆息を噛み殺して白い顔をした。
「龍然は妾《わたし》をずい分可愛がつてゐますわ」
「さうですね。そのやうに見えますね。僕は友達といふのは名ばかりで、ろくすつぽ話もしたことがないのですし、同じ寺に寝起きしてゐても二三日顔を合はさずに暮すことさへよくあるくらいですから、あの男に就ては実際のところ何も知つてゐないのです」
「龍然は、でも、あんまり悧巧な男ではありませんわね。冷たくて冷たくて、時々ぼんやり何か考へごとをしてゐてやり切れないのです。妾を可愛がるのもいいけれど、とにかくさういふ気持を自分で反省するとき淋しい自己嫌悪を感じるのは苦痛だから、可愛くても可愛いいというふうに思ふのは厭だ厭だと言ふのですわ。それでゐて気狂ひのやうに劇しく妾を抱くのです。龍然の淋しい気持は妾にも大概分りますけれど、表へ出す冷たさが妾にはあき足らないのです。龍然は莫迦野郎ですわね。龍然はほんとうに莫迦野郎ですから、妾は別れる気持になりました――」
「ははあ……それは今朝のことですか――?」
「いいえ、ずつと昔からですわ。でも、ほんとうに決めたのはたつた今しがたなんですわ。村に女衒が来てゐるのです。三月と盆は女衒の書き入れ時ですから。妾はずつと昔にも一度女衒に連れら
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