く占領してゐた。凡太はそれにぢつと浸りながら、本街道に沿ふて平行に流れてゐる暗い嶮しい間道を伝ひ、ひつそりと音の落ちた山を二つ越えてから本街道へ現れてみると、もう黒谷村の家並を遠く通過して、熊笹ばかり繁茂した黒谷峠のただ中へ、間もなく迷ひ込むばかりの、そんな地点に当つてゐる憂鬱な杜だつた。凡太はいそがわしく廻れ右をして、今度は本街道伝ひに黒谷村へ戻りついたが、恰も長い長い歴史の中を通過してきたかのやうに感じながら、居酒屋の灯を見出してそれを潜つた。居酒屋の女中も盆踊りにまよひ出て、ほの暗い土間の中には老婆が一人睡ぶたげな屈託顔をしてゐたが、凡太は二階へ通らずに、一脚の卓によつて酒を求めた。
「もう若い者はいつこうに踊りに夢中でして――」と、老婆は黒谷村に不似合な世馴れた笑ひを浮べながら、この村では出稼ぎの女工達も踊りたいばかりに盆を待ちかねて帰省するが、なぞと語つた。凡太はむやみに同感して深くうなづいてみせた。此処へ来て酒を掬むに、あの甘美な哀愁はなほ身辺を立ち去ることなく低く四方に蹌踉し、むしろその香わしい震幅を深くするやうに感ぜられた。彼はこの旅に出て以来《このかた》といふもの、この夜ほど深い満足と共に杯を把りあげたことは無かつたので、盛んに饒舌を吐きちらしながら盃を重ねてゐたが、遂ひには軽快な泥酔状態に落ちて、老婆を相手に難解な術語などを弄しながら人生観を論じ初めたりしたが、老婆は至極愛想が好くて、「さうですぜの、ほんとうに、その通りですぜの」と相槌を打つてゐた。やがて夜が一段と更けて、壁の中から何か古臭い沈黙が湧いて出るやうな気配を、幾度となく感じはぢめる時刻になつてゐた。――そのうちに、女中も踊りから帰つて、賑やかな足取りを金比羅山の山つづきのやうに土間の中へ躍り込ませて来たが、すると、直ぐそのうしろからのこのこ[#「のこのこ」に傍点]と頸を突き入れた小男を見て、凡太は愕然とした。それは疑ひもなくあの女衒で。――女衒は上框《あがりかまち》に腰を下して片足を膝に組みながら、鋭く凡太に一瞥を呉れたが、すぐに目を背《そ》らしてそ知らぬ顔をつくり、二階へ上つた女中に向いて「もう上つてもよいのか」と、ひどく冷い横柄な言葉を投げた。それらの全ての物腰には、凡太にとつてとうてい[#「とうてい」に傍点]なづむことの出来ない冷酷な狡智を漂わしてゐたので、彼はむらむらと憎悪を
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