、沈鬱な過程《ぷろせす》が感ぜられた。橄欖寺の裏手から墓地を抜けると、杉並木の嶮しい間道がものの四五丁もして、やがて鬱蒼と山毛欅《ぶな》の林に囲まれた金比羅大明神へ続くのであつた。歩いて行く先々《さきざき》にぷつんと杜切れる虫の音は、その突然の空虚《むなしさ》で凡太の心をおびやかして、その激しい無音状態がむしろうるさく堪えがたい饒舌に思はれてくる、なぜかと言へば自分自身の精神が湧く波の如く饒舌なものになりはぢめるから。零れ落ちる月明を頼りに、やうやく山毛欅のこんもりとした金比羅山の麓まで辿りつくと、それらしい燈火は何一つとして洩れて来なかつたが、ごやごやした人群の喚声が、葉越《はごし》に近くききとれた。その山へ差しかかつてはぢめて、かなり劇しく喘へぎ出した由良を助けながら、境内の平地へ一足かけてぬつと頭をつき出すと、群れてゐる群集の分量とは逆に、点つてゐる提灯の燈りは思ひがけないほど乏しい数だつた。ぼんやりと浮かび出てゐる薄ら赤い明りから人群の大部分はむしろはみ出しており、外側からは無論見えない樽太鼓を中に、村の衆は男女を問はず広い花笠に紅色の襷をかけて、唄ともつかぬ盆唄を祈祷のやうに呟きながら、単調な円舞《ライゲン》を踊つてゐた。それは実際 der Reigen と呼ぶにふさわしいものであつた。九月にはもう劇しい雨雲の往来、やがて山といふ山の木木に葉といふ葉が落ちつくして、裸の枝ばかり低い空一面に撒きちらされた山を、いそがしく落葉をたたいて時雨が通る、十一月も終る頃にはもはや[#「もはや」に傍点]とつぷりと雪に鎖されて、年かわり、山の曲路《かあぶ》に煤けた吹き溜りの雪がやうやく蒼空に消え失せるときはもう五月、明るい空を山一杯にほつと仰ぐともう夏の盛りが来てゐた。一年の大部分は陰惨な雲に塗りつぶされて、太陽の光を仰ぐといふことは一年にただ一回の季節であつた。瞬時《ときのま》にその夏も亦暮れる、そして生活も暮れてしまふ、蒼い空の在ることをさへ忘れつくして、湿つた藁屋根の下に村人たちが呟くであらう嗄れた溜息が、明るい夏空の裏側に透明な波動となつて見え透いてゐる。黄昏に似た慌ただしさで暮れてゆく一瞬《ひととき》の夏に追ひ縋つて、あの蝉の音に近い狂燥を村の人達は金比羅山に踊るのであつた。同じ気候の染《しみ》を負ふて、鈴蘭の咲くころ、乙女達が手を執りながら青い草原に踊る北欧の
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