言へば、それは断じてさうでない、ただ、大いに激昂して叫喚乱舞に耽溺してゐる最中に、興奮してゐることそれに就て波のやうな退屈を感得し、落胆《がっかり》してしまふのであつた。
 由良の肢体はだらしなく床板の上に寝そべつてゐたが、凡太の丹誠によるほのかな燈明のおかげで、幸ひそれは人魚のやうに可憐に縹渺として童話風な恋情をそそつた。凡太は腕を拱いて空間を凝視してゐたが、やがて波のじつとりと落ちた広い広い海原に、倉皇と海面《みのも》を走る遥かな落日を、その皮膚にすぐ近くひたひたと感じはぢめてゐた。それは遥かな海であつた、已にとつぷりと暮れた東南の紫は次第に深くくろずみ渡り、西方の水平線にはわづかに残る薄明がひろい寂寥を放つてゐたが、そのとき、深くうなだれた一人の男が永遠に帰らんとするものの如く、足を速めて西へ西へ海原を歩く像《すがた》を見出してゐた。鋭い影は一線に海を流れてすでに深い背《うしろ》の闇に溶け去つてゐるが、男はそのただ一つなる決意のみを心とする人の如く、ひたすらに帰らんとして疲れた足をいそがせてゐる、しばらくして、ものに怯えた人の如く、男はふと頸をめぐらして背《うしろ》の闇をぬすみみた、そして……うう、「如是我聞、如是我聞――」、算を乱して逃亡する自我の滅裂を感じながら、居ずまひを立て直した凡太は、勇気をかりおこして経文を呟きはぢめたのであつた。それも亦束の間のこと、ぶつぶつ煮える呟きも次第に低く引き去れば、山上の金比羅大明神の前栽に鳴りひびく盆踊の樽太鼓のみ、静かに脊髄に泌みついてきた。そのとき由良ももつくりと起きた、暫らく手を床《ゆか》について、重たげな頭をぢつと下に向けながら、様々な音響を耳にこまかく選りわけてゐるやうな形であつた。
「踊りの太鼓がきこえますわね……」
「さう、トントントトトトトントン……と、はあ、きこえる」
「行つてみませうか」
 由良はふらふら立ち上つて、燈明の方をぢつと見てゐたが、がつかりして笑ひ出した。
「ほら、燈明をぢつと凝視めてごらんなさい。くすぐつたいやうに、ちろちろ気どつて揺れはぢめる……気のせいばかりぢや、ありませんわね。厭な奴。ああああ――」
 歩き出してみると、凡太の杞憂したほど由良の歩行は乱れてゐなかつた。風は死んでゐたが、夜気そのものが冷え冷えと膚に迫つて、その度に冥想すべき何等かの思考力を植え落してゆくもののやうな
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