犯された瞬間に、彼は身体の隅々に強烈な涸渇を感じながら、もしその時この雑踏の中で一つぺんに気絶したなら、何かふうわりとした夢幻的な方法で、次の瞬間にはその身体が山へ運ばれてゐるのではあるまいかと思はれたりした。そんな時だ、手の置き場所が分らなくなつて、手がそれ自身意志を持つ動物であるかのやうに、肩や腰や背や空や、あてどもなく走り出し騒ぎはぢめるのは。――そんな一日のこと、彼は雑踏のさ中で、ふと蜂谷龍然を思ひ出したのだ。それは別に深い意味があるわけではない。彼は旅費が不足してゐた、そして龍然は山奥に棲んでゐた。
龍然は、学生時代にも、凡太とそれ程親密な間柄ではなかつた。ただ、二人共ほかに親しい級友を持たなかつたので、かなり親しい友達のつもりで、時々往復し合つてゐた。結局卒業してしまふまで、「あります」「あなた」といふやうな敬語を用ひ、相手がうるさくて堪へられない時や酒のうへなぞでは、別段怪しみもせずぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]な言葉を、その時だけは極めて自然に使ひ合つたりしてゐた。龍然はとりわけて才のある男でもなく、一見さう見える通り、実際もごく平凡な好人物であるやうにしか考へられなかつた。取柄といへば、意地の悪いところをまるで持たないことと、田舎者じみてゐるくせに、都会的な感覚なり見解なりを、平凡ではあるがしかし本質的に持ち合せてゐたことだつた。龍然は父母もなく妻もない一人者で、黒谷村の橄欖寺《かんらんじ》に若い住職であつたが、凡太がふと彼を思ひ出した瞬間には、まだ一度も見た筈のない龍然の法衣を纏ふた姿が、何等の不思議さも滑稽味もなく歴々と其処へ立ち現れた程、本来坊主くさい男だつた。額をつき合してゐたら、一時間でも退屈するであらうのに、一夏起居を共にするとしたら、考へただけでも重くならざるを得ない、まして、彼の調べた地図によれば、黒谷村は成程山奥には違ひないけれども極くありふれた山間の盆地にすぎないやうであつた。しかし其の年、凡太は次々に起る不愉快な出来事に齲《むしば》まれて自棄まぢりの重苦しさを負担してゐたから、東京にゐて憂鬱の尾を噛みしめるよりはまだしもまし[#「まし」に傍点]であらうと考へ、リュックサックを背にして夜汽車に乗り込んでみたが、重荷は汽車の速力に順《したが》つて深くなるやうにしか思はれなかつた。
翌朝山間の小駅に下車して、ぽろぽろと零《こぼ
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