つたが、しかし凡太の心には、深い哀愁が長く長く尾をひいて消え去らなかつた。一体この朝夕、龍然の超然とした物腰には、隠しがたい陰惨な影がほのかに滲み出てゐることを、凡太は見逃すわけにいかなかつた。凡太の思ふには、これは一つには女の事情でもあらうと一人心に決めてゐたために、そのために何故ともなく、淋しい思ひが尚強く胸にこたへてきた。しかし温泉で酒をくんでも、女の話には、もはや龍然は一言だにふれなかつた。
 いつとはなく盆に近い季節となつて、夜毎に盆踊りの太鼓が山の上に鳴りつづいてゐた。盆とはいへ、この辺りでは八月にそれを行ふ習慣であるから、もう夏もすつかり闌《た》けて、ことに昼は蝉の音にさへ深い哀愁が流れてゐた。その朝、龍然は五里ばかり離れた隣村の豪家から使ひを受けて、かねて知り合ひの其処の次男が急死したために、通夜に招かれて一泊の旅に出掛けてしまつた。ただ一人ぼんやりと夜を迎へたら、蜩《かなかな》と共にとつぷり落ちた夜の太さに堪らない気持がして、かねて馴染の居酒屋へ酔ひに行こうかとも思案したけれども、尚満ち足らぬ気持があつたので、凡太はガランとした本堂へ意味もなくぐつたり坐り込んでゐた。燈明を点してみたり、又一度坐り直して暫らくして、又立ち上つて冷い床板をぐるぐる歩き廻つたりしてゐるうちに、橄欖院呑草居士といふ位牌を一つ、もう埃にまみれてゐるものを見出したのであつた。彼はぢつと考へて、又一度坐り直したが、いつの間にやら夢の心持で、経文を唱へはぢめてゐた。彼は坊主ではなかつたが、学生時代には印度哲学を専攻したために、二三の短い経文はおぼろげながら暗《そら》んじてゐたから。一体位牌そのものの出現が孤独を満喫してゐる凡太にとつて少なからぬ神秘であつたのに、以前彼は龍然からこの寺の先住に就て妙な話をきかされてゐた。それは一応噴飯に価する無稽な話に思はれたが、笑ふ相手もなく孤りでゐるこの時には、別に滑稽味もなく素直に先住の面影が浮んできた。それ故凡太は、噴き出すこともせずに、こんなしかつべらしい端坐を組んで誦経をやり出したのであつた。その話といふのはこうであつた。橄欖寺の先々代は学識秀でた老僧であつたが、酒と茹蛸《ゆでだこ》が好物で、本堂に賭博を開いては文字通り寺銭を稼いで一酔の資とするのが趣味であつた。町へ出る度に、茹蛸を仕入れて帰るのが楽しみであつたが、一日、まるまるとした
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