ら、うむうむと頷く声が聴えたり、日本の裏手は北|亜米利加《アメリカ》ではないだらう等と、愚にもつかない話声も洩れてきたりするが、流石にまれには女の泣く音も聴えたりしてそれらしい情景を想像させることもあつた。激しい鳴咽が長長と消えない夜も、龍然は別に凡太の手前をつくろつて、それを隠しだてる気配も立てはしなかつた。彼の方でもことさらに聴き耳を立てるわけではなかつたから、つぢつまの合はない物音が時たまぽつんと零れてくる程にしか過ぎない、恋といふ感じよりは、どう思ひめぐらしてみても尋常の人の世の営みを越えた刺激は全く受けることがなかつた。ただ女が、農婦よりはいくらか程度の高い教養を持つ人であることを、薄々感じることが出来てゐた。それだけの話で、かなり長い後まで、女の名前は勿論、女の顔さへ見知ることなく過してゐた。さういへば、一度だけその後姿を見かけた黄昏があつた。それは二人が打ち連れて間道を抜けながら隣字《となりあざ》の温泉――といつても一軒の宿屋が一つの湯槽を抱えてゐるにすぎないのであるが――へ浸りに行く途中のこと、丁度本道と間道との分かれ路にあたる鬱蒼とした杉並木で、本道を歩いて村へ帰る束髪にした女人の大柄な形をみとめたのであつた。三本路のことであるから、別に擦れ違つたのでもなく特別な注意もしてゐなかつたので、凡太はその顔を見なかつたが、暫くして、あれが俺の女で苫屋由良といふ名前だと龍然はふと言ひすてた。実はその時、ほんのわづかではあつたが、まだそれを口に出さない龍然の沈黙の数秒の間に、已にそれを感じさせる何がなしの感傷があつたので、凡太は疾くそれを悟ることができて、どんよりと澱んだ黄昏のなかへ波紋を画きながら拡がつてゆく太い憂鬱を味はつてゐた。そして龍然が口を切るまでの短い沈黙を、堪えがたい長さに圧しつけられてゐたので、その言葉をきいた時にははや振り返る気持にもならなかつた。しかしとにかく振り向いて、女の後姿よりはむしろその前方に暮れかかつてゐる已に漠然とした山山の紫を、ぢつと目に入れて頸を戻したのであつた。それでも気のついた限りでいへば、女は浴衣をきてゐたが、その着こなしが確かに都会生活を経てきたにちがひない面影をあらわしてゐた。ただそれだけの観察であつた。二人は又こつこつと狭い間道を歩いて、その時もはや龍然の物腰にはいつもの残骸といふ感じしか見当てることは出来なか
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