じように、サイダーをのみ終えてから、云った。
「去年の十月はじめごろ、二十円のカタにセーターをぬいで渡した釣人を覚えていないかね」
その瞬間にまさしく野村も見たのである。木戸の云った例の四五桂と同じものを見たと思った。むろんそれは野村にとっては四五桂ではない。また木戸があるいは真剣勝負の剣客のスキのないきびしさと云ったものともややちがう、それは世の常の人のものとはちがっていた。驚愕がないのだ。そして、怖れがないのだ。そこに溢れているものは怒りであり、逞しい闘志であった。いわば全てが一途にはりきったきびしい気魄のみであって、その裏側にあるべきはずの驚きや怖れが欠けているのだ。いわば無智の象徴と云うことができるかも知れぬ。敵のみを知りうる無智。闘うことを知るのみの無智。木戸がその顔に四五桂を見てそれが読み切られた四五桂であると確信したのは、極端に無智な闘魂に負けたからではあるまいかと野村は思った。この顔から急所の四五桂を見てとるのはむしろ無理だが、殺人を感じたことは肯きうるかも知れないと野村は思ったのである。
「そのセーターを返してもらいにきたわけじゃアないがね」
と野村は笑って云った
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