不安がわいたのさ。御達者で何よりだ」
「もう世をすてました。お目にかかっても、何も申上げる言葉がないんですが」
「しかし、四五桂から同棲のコースは、ありうるとは思ったが、意外であったね。文士にとっても、やや意外だね」
「そうですか。ボクにはそれほどのこともないのですが。ボクは盤面の四五桂に錯覚し、次の対局ではペシャンコでしたが、ここの四五桂には錯覚がありませんでした。盤面に見切りをつけるのは当然じゃありませんか。ここに故郷を見出すのも当然なんです。むしろ宿命的ですよ。きわめて素直なコースです」
「しかし、オヤジサンの死は病死だというじゃないか」
「むろん、病死です。しかし、なんしろ、この山上から病人を大八車につんで降すんですから、病人をガンジガラメに車にしばりつけましてね。ガッタンゴットン荒れ放題にひきずり降すんでしょう。ま、手心次第というものですね。闇夜のことだし。病死は絶対なんですがね」
「なるほど。で、怖くないのかね」
「何がですか。人生は怖いものばかりですよ。こゝに限って何が怖いことがあるものですか。素直にかえった人間は子供なんです。彼の目に見えるものは全てが母親のやさしさだけです。ボクはふるさとに住んでるのです。ほら、母親がでてきました。母親は子供が心配なんです。叱りたくなるんですね。で、ボクは叱られないように沈黙しましょう」
色のまッ黒い母親が二人の一間ほどの距離まで近づいて立ちどまった。野村をジッと見つめているだけで、今日は言葉の丸太ン棒をくりだそうとする様子がない。女占い師の無言の威勢を認めることができた。二十四五の出戻りだという村人の話であったが見たところは二十そこそこの田舎娘の稚さが骨格たくましい全身にただよっているようだ。もっとも面相もただ逞しく、胸にオッパイがもりあがってそれが女らしいというだけで、セメント細工の感じであった。
長居は無用に見えたので、野村は最後にこうきいた。
「将棋ファンの中にはキミの消息を知りたいと思っている人も少からぬ数だ。と思うが、いつか棋界に復活する気持はあるだろうか」
「それについてお答えするよりも、ボクがこの地に生きながらえていることを忘れていただきたいということがボクの唯一の希望なんですがね」
「その御希望にはそうつもりだが人の心は変りやすいものだから、心変りにも素直に順応したまえ。ふるさとが一ツとは限らな
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