だ。
だから、敬語を廃せなどゝ、現に行われている言葉のイノチある力に向って、新規則を立てゝ束縛しようとしたって、何の効果があるものでもない。
生活さえ改まれば言葉はカンタンに改まるのだ。言葉を改めようという努力などはミジンも必要ではない。見たまえ、戦争中の商人に向って、アリガトウと云ってくれと頼んだって、言ってくれるものじゃない。国民酒場のオヤジに向って、旦那、スミマセンガ、モウ一杯ナントカ、と頼んでいるのはオ客の方で、ダメだよ、ウルセエナ、と言っているのはオヤジの方なのである。誰が言葉を変えよと命令したわけでもない。一朝生活が変るや、瞬時にして言葉は変っているのである。
奇怪な敬語や何やら横行し、日本の言葉が民主的でないと云うなら、日本人の生活がまだ民主的でないというシルシにすぎないものだ。
敬語廃止運動が起るとすれば、新生活とか生活改善運動の一部として行われる以外に意味はない。全日本人の言葉を法則を定めて統一しようとするのはムリであるが、あるキッカケを与えて自然の変化をうながし待つことは不自然ではない。
先ず、新聞をひらいてみたまえ。ある人を氏とよび、さんとよび、君とよび
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