第であって、根はあくまで、生活が言葉を生んでくるだけだ。
 八ッつぁんの女房がとたんにザアマスとやりだした裏には、それに相応した心理上の生活があってのせいだ。
 娘が青年に、足をふいて下さらない、と云ったり、オミアシおふき遊ばして、と云ったり、足をふいてよ、と云ったり、それに即した生活があってそう言うのであり、生活あってのことだ。
 戦争中の商人は、オメエ何が欲しくってオレのウチへ来たんだい、という調子で、敬語などは、自然になくなっていたのである。
 近ごろは商売仇も現れて、お世辞の必要があって、イラッシャイ、毎度アリ、などゝいう言葉もきかれるようになったが、かくの如く簡単に、言葉というものは生活に即しているものなのである。
 もしも敬語というものがなく、「汝何を吾に欲するや」という一語しかない場合、戦争中の日本商人は仏頂面に客を睨《ね》めまわしてその言葉を云い、終戦後の今日はモミ手をしてニコヤカにそれを言うであろう。敬語の代りにモミ手とニコヤカがあるわけで、そこに実質的な何らの変りもありはせぬ。日本商人の敬語が悪いというなら、モミ手もニコヤカも悪いというだけのことである。

    
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