い。ナゼ箸とよばねばならぬか。二字もあるなんてゼイタクな。ハ、ではいかんか、シ、ではいかんか。
つまり、敬語など突ッつき、言葉の合理性などということを言いだすと、言葉全体を新たにメートル法式につくりあげない限り、合理化の極まる果はないのである。
敬語にあらわされる階級観念は民主々義時代にふさわしからぬと申しても、旧態依然たる生活様式があり観念があるからには仕方がない。言葉だけ変えてみたって、実質的には何らの意味もなさない。生活の実質的なものが、おのずから言葉を選び育てるのであるから、問題はその実質の方である。
イギリスの笑い話に、小説の第一行目から人の注意を惹くために「侯爵夫人はコン畜生のバカヤローと怒鳴った」と書けばマチガイなし、というのがある。
つまりイギリスには侯爵夫人の使わない言葉というのが存在するわけであろう。上流の言葉、下流の言葉。日本とても同じことだ。インドの哲人の如くに、日本にも学者の言葉というものがないワケでもない。これもすでに言葉の階級性ではないか。生活や趣味や教養に差があれば、おのずから選んで用いる言葉も異る。敬語も同じ性質のものにすぎない。
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