それをどう受けとるにしても、味覚の好悪というものは好き好きで論外である。
オセイボだ年始だと無意味なものを取ったり贈ったり、香典だの香典がえしだのと、すべて人間の真情に即さゞる形式が生活の規矩をなしており、生活が真情に即していないのだから、言葉が真情に即さなくなる。つまり物自体を的確に表現することが生活の主要なことではなくて、儀礼的に言葉をあやつることに主たる工夫があるから、空虚な内容を敬語かなんかで取り繕う必要も生れてくるわけであろう。
オ役人サマ、と云う言葉には、その言葉に即した生活が現に存しているのだし、親分然と「オ若イ人」だの、オ若イ、オ若イ、などという、みんな言葉に即した生活が実在して、その生活が実在する限り、その言葉にはノッピキナラヌものがあり、イノチがあるではないか。
オ百姓、という。百姓じゃ軽蔑しているようだし、農夫というと学問の書籍の中の言葉みたいで四角すぎるし、当らず障らず、軽蔑の意をおぎなう意味においてオの字を上へつける。オ百姓のオの一字に複雑怪奇な心理的カットウが含まれ、そして、そういう心理的カットウが日本人の生活に実在するところから怪奇なる敬語が現れる次第であって、根はあくまで、生活が言葉を生んでくるだけだ。
八ッつぁんの女房がとたんにザアマスとやりだした裏には、それに相応した心理上の生活があってのせいだ。
娘が青年に、足をふいて下さらない、と云ったり、オミアシおふき遊ばして、と云ったり、足をふいてよ、と云ったり、それに即した生活があってそう言うのであり、生活あってのことだ。
戦争中の商人は、オメエ何が欲しくってオレのウチへ来たんだい、という調子で、敬語などは、自然になくなっていたのである。
近ごろは商売仇も現れて、お世辞の必要があって、イラッシャイ、毎度アリ、などゝいう言葉もきかれるようになったが、かくの如く簡単に、言葉というものは生活に即しているものなのである。
もしも敬語というものがなく、「汝何を吾に欲するや」という一語しかない場合、戦争中の日本商人は仏頂面に客を睨《ね》めまわしてその言葉を云い、終戦後の今日はモミ手をしてニコヤカにそれを言うであろう。敬語の代りにモミ手とニコヤカがあるわけで、そこに実質的な何らの変りもありはせぬ。日本商人の敬語が悪いというなら、モミ手もニコヤカも悪いというだけのことである。
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