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 言葉というものは、それが使用されているうちは、そこにイノチがあるものだ。
 十年ぐらい前から、ラジオや新聞の天気予報に、明日は晴レガチのお天気です、とやるようになったが、大体古来の慣用から云えば、何々シガチというのは、悪い方向に傾いて行くときを云うのであって、病気シガチだとか、貧乏シガチだとかと云う。決して丈夫になりガチだの、金を儲けガチだのとは言わないものだ。天気の場合はクモリガチとは云ったものだが、晴れガチなんて慣用はなかった筈だ。
 けれどもこうしてラジオや新聞に報じられているうちには、それが現行のものとなり、実在してしまうから仕方がない。言葉の場合などは慣用が絶対だという法則はないのであるから、いずれは文法に、ガチの慣用のうちで晴レガチだけが不規則、というようなことになって、言葉の方に文法を動かして行く力がある。言葉とは元々そういうもので、文法があって言葉ができたワケではなく、言葉があって、文法ができたのである。
 それは文法にあわない、とか何とか学者先生が叫んでみたって、文法の空文とちがって言葉にこもるイノチというものは死んだ法則の制しうべからざるものなのだ。
 だから、敬語を廃せなどゝ、現に行われている言葉のイノチある力に向って、新規則を立てゝ束縛しようとしたって、何の効果があるものでもない。
 生活さえ改まれば言葉はカンタンに改まるのだ。言葉を改めようという努力などはミジンも必要ではない。見たまえ、戦争中の商人に向って、アリガトウと云ってくれと頼んだって、言ってくれるものじゃない。国民酒場のオヤジに向って、旦那、スミマセンガ、モウ一杯ナントカ、と頼んでいるのはオ客の方で、ダメだよ、ウルセエナ、と言っているのはオヤジの方なのである。誰が言葉を変えよと命令したわけでもない。一朝生活が変るや、瞬時にして言葉は変っているのである。
 奇怪な敬語や何やら横行し、日本の言葉が民主的でないと云うなら、日本人の生活がまだ民主的でないというシルシにすぎないものだ。
 敬語廃止運動が起るとすれば、新生活とか生活改善運動の一部として行われる以外に意味はない。全日本人の言葉を法則を定めて統一しようとするのはムリであるが、あるキッカケを与えて自然の変化をうながし待つことは不自然ではない。
 先ず、新聞をひらいてみたまえ。ある人を氏とよび、さんとよび、君とよび
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