は「お前よび」というのがある。フランスには「アナタ」の外に「オマエ」という言葉が存在し、恋人、夫婦、親友、などは「お前よび」という特権を享楽することができる。他人をよぶにはアナタと云って、テイネイに分け距てゝおくのである。
オマエなどゝいう言葉が存在するのは怪しからん、という。人をよぶには常にアナタでなければならぬ。そんなことを力説してみたって、人を差別する気持があって、相手を自分より卑しいもの、低いものに見る観念がある以上、言葉の上でだけアナタとよんだって、なんのマジナイになるというのか。
人を見るに差別の観念がなければ、人をよぶ言葉はおのずから一つになるにきまっているし、かりに英語の如く人をよぶに、ユー、の一語しかなくとも、差別の観念のある限り、ユーの一語も発音のニュアンスに色々と思いが現れる筈で、やっぱり根本の問題は言葉の方にあるのではない。
女房をお前とよぶのは男尊女卑の悪習だというが、例がフランスの「お前よび」にある通り必ずしも男尊ではなく親密の表現でもあり、他人行儀と云って他人のうちはテイネイなものだが、友達も親密になると言葉がゾンザイになること、日本も「お前よび」と同断であり、女房をお前とよぶのも、むしろ親しさの表現の要素が多いであろう。
たゞ、日本の場合、女の方が亭主をアナタとよぶのが女卑の証拠だというのも、一概にそうも云えない。男言葉と女言葉の確然たる日本で、男女二つの呼び方が違ってくるのは当然で、アナタとよぶことが嬉しいという日本の女性心理には、日本の言語の慣例を利用して、愛情を自然に素直に表出しているにすぎないと見る方が正当ではないかと思う。
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言葉という表面に現れているものだけを突き廻して、それだけを改めたってムダなことだ。その奥にあり、敬語という形となって現れた日本的生活の歪みというものを突きとめて、それを論じることが必要である。
お客をもてなすに、ツマラナイモノデスガ、とか、お口にあいませんでしょうが、とかと、妙に卑屈なことを言う。敬語という妖怪をあやつる張本人というのは、そんな風な日本的生活に在るのだろうと私は思う。今日はウチの連中が腕にヨリをかけた料理で、とか、これは自慢の家庭料理で、とか、その食べ物の性格について己れの信ずるところをハッキリ云えばそれでよい。不出来だと思ったら不出来、相手の味覚が
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