サンが、とたんにザアマスをやりだして、人に笑われて得々としている。人に笑われることによって、自らも伯爵夫人の威厳を身につけた如くに心得ているらしい。要するに言葉の問題は教養自体が問題なのだ。
 ヨーロッパに女性語がないというのはマチガイだ。フランスにも女性語はある。学校で先生が出欠をとる。ハイと答えるに、男学生はプレザンと答え、女学生はプレザントと答える。語尾に余計物がつくこと、日本のワヨの如しである。
 よしんば言葉に変化はなくとも、女性的な抑揚は男性とは別であり、女性の抑揚も亦個性によってそれぞれの相違があり、かかる表現上の相違と、言葉自体の相違と、本質に於ては異るものではない筈だ。本質は何か。即ち、嗜好や教養である。

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 敬語の問題も亦、女性語と同じことだ。オ茶碗だ、オ箸だ、食器にまでオの字をつけて怪《け》しからん。ナゼ怪しからん。ナゼ怪しからんてッたッて食器にオの字をつけて敬う必要があるか。ナルホド必要はない、然し、言葉は必要の問題であるか、然らば、茶碗や箸などという言葉に、必ずそうでなければならぬ必要や必然性があるのであるか。これは、どうも、ないらしい。ナゼ箸とよばねばならぬか。二字もあるなんてゼイタクな。ハ、ではいかんか、シ、ではいかんか。
 つまり、敬語など突ッつき、言葉の合理性などということを言いだすと、言葉全体を新たにメートル法式につくりあげない限り、合理化の極まる果はないのである。
 敬語にあらわされる階級観念は民主々義時代にふさわしからぬと申しても、旧態依然たる生活様式があり観念があるからには仕方がない。言葉だけ変えてみたって、実質的には何らの意味もなさない。生活の実質的なものが、おのずから言葉を選び育てるのであるから、問題はその実質の方である。
 イギリスの笑い話に、小説の第一行目から人の注意を惹くために「侯爵夫人はコン畜生のバカヤローと怒鳴った」と書けばマチガイなし、というのがある。
 つまりイギリスには侯爵夫人の使わない言葉というのが存在するわけであろう。上流の言葉、下流の言葉。日本とても同じことだ。インドの哲人の如くに、日本にも学者の言葉というものがないワケでもない。これもすでに言葉の階級性ではないか。生活や趣味や教養に差があれば、おのずから選んで用いる言葉も異る。敬語も同じ性質のものにすぎない。
 フランスに
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