かに時計の音だと先生は斯う決めたが、下の何処やらで、尤も上の何処やらかも知れなかつたが、ボンとただ一つだけ鈍く鳴つた。一時か?――恐らく時計の一時であらう。アッケないほど一つだけ鳴つて、それきり鳴り止んでシンとしてゐたので、ハッとして思はず欹《そばだ》てた先生の心へは呆れ返るほど寒々とした闇の冷たさが押し込んできた。背筋を伝ふやうにして冷いものが走つたのである。そして何だい今のは時計かと先生は思つた。
併し斑猫先生はそんなにいい気にをさまつてゐられなかつた。今度はかなり近い所に、たしかに人の呻くやうな低い声が聞えてきたのだ。低く幽かであるけれど、これはかなり長く続いた。聞きやうに由つては建物の何処からともとれるやうな、変に平べつたい充満した声であつた。
「…………」
意味がハッキリ聞きとれないのだ。聞きとれぬうちに又消えて、又沈黙がきた。先生は身体全体が冷えてきて、タラタラと無気味なものが皮膚《はだ》を流れるやうであつた。ヂッと耳を澄してゐると、果して又、今度は、
「――お母さん、お母さアん……」
ナ、なあんだい。チッポケな子供の声ぢやないか。してみると、大方こいつは夫婦者アパア
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